俺と、妹と、彼女の夏


 * 序 *  俺の妹は、可愛いが、無愛想だ。  俺の妹は、女子高生で、三つ年下だ。  俺の妹は………… 「兄さん、早くして」   妹の呼ぶ声を聞きながら、朝食の残りをかき込む。。  玄関に向かえば、頬をふくらませながらすねたように俺の方をにらむ妹と、その傍らに置かれた無骨なアルミの松葉杖。  ほころびかけの花のように清楚な制服姿から伸びるすらりとした手足に、無骨なそれはあまりにも似合わない。 「よし、足出せよ」 「ん」  玄関の段差に座る妹の学校指定のソックスに包まれた足を取り、靴を履かせてやる。歳不相応に細い……のだろうか。彼女以外の女子高生の足に触れたことがない俺にはよく判らない。  俺が靴を履かせている間、妹は頭の横で二つに結んだ長い黒髪を黙っていじくっていた。俺には違いがほとんどわからないけれど、きれいに結うにはいろいろと苦労があるそうだ。癖が取れない日にはさんざん愚痴を聞かされるものだけど、今日はきっと上手くいっているんだろう。 「ほら、立てって」 「ん」  妹の左手を取って立ち上がらせる。俺がそのまま両手で左腕を取ると同時に、妹は右手で松葉杖を握る。 「結花(ゆか)、ちょっと重くなったんじゃないか? 二の腕もぶよぶよしてるし」 「……っ!!」  ぴくりとも表情を変えず、妹が俺の足を踏みつける。まったく、冗談の判らない奴め。  家の前の駐車場までのアプローチを二人三脚の要領で歩き、助手席のドアを開けて妹を座らせてやる。 「兄さん、今日もお願い」  運転席に乗り込めば、松葉杖を抱えた妹が助手席からこちらを見ないままぶっきらぼうに言った。 「シートベルト締めたか? よし、行くぞ」  俺の言葉に妹が無言でうなずくと同時に駐車場から出る。妹の高校まで十五分。校門の前で妹を下ろし、それから大学へ向かえばちょうど一限の開始と同じくらいになる。  街を見下ろす高台。そこを上る急な坂の、頂上から少し降りた所に俺たちの家はあった。  子供の頃は自転車でどれだけ速く坂を駆け下りられるか競争して遊んだものだけど、今となってはただ面倒くさいだけだ。  頬杖をついて窓の外を眺める妹を乗せ、俺はゆっくりと坂を下る。  坂道の終点、T字路の向こう側には、すぐそばを流れる川の水面が初夏の朝陽で輝いていた。    そういえば。    今さら言うまでもないが、俺の妹は、片脚が不自由だ。      * 1 *   「晃司、晃司!! またそうやってぼうっとして。妹さんのことでも考えてたんでしょ」  午前中最後の語学の講義が終わり、ざわつく講義室。降り出した雨でぼやけるキャンパスの風景を窓越しに眺めていると、隣の席から頬をつつかれた。柔らかい指がそのまま俺の頬をこね回す。 「何か言ってくれないと、私も困るんだけどな」 「……佳央理(かおり)、お前がそんな事してるから喋れないんだろ」 「えへ、ばれた?」  ようやく離された指と同時に振り向けば、可愛らしく小首をかしげた俺の恋人がいる。 「すぐ隣の付き合いたての彼女を無視して他の女の子のことを考えてたら、そりゃ私だって怒るよ。むしろこのくらいで済んで幸運だと思った方がいいよ?」 「それが妹でもか?」 「もちろん!!」  胸を張って佳央理が答える。 俺より一つ歳上のはずなのに、こうしてすねている時はとても子供っぽいのが、佳央理の自分では気付いていない特徴だ。  背は低いけれど着やせするグラマーな体型に、肩に届くか届かないくらいの短めの髪。容姿では全く共通点がないのに、こんな時の佳央理を見ているとどうにも妹を思い出してしまう。 「上の空になっちゃって。雨が降ってるだけでそんなに心配になるものなの?」 「前にも話しただろ。妹は交通事故で脚が悪いんだよ」 「でも、一人で登下校くらいはできるんでしょう? 晃司が送り迎えしてるのは毎日じゃないんだし」  少しだけ眉をひそめ、佳央理は続ける。 「夏休みに入って私の看護実習が始まったら会ってる暇なんてなくなるから、その前にいろいろやっておきたかったのに……」  学部が違うから、来年になったら授業も被らないしキャンパスも完全に離れちゃうし、と寂しげな佳央理。 「妹の世話で時間が取れないのはすまないと思ってる。でも、看護実習と言ってもせいぜい一ヶ月くらいだろう? そのくらいの間なら別にいいじゃないか」  俺の言葉を聞く佳央理の表情が次第に曇ってゆく。何かまずいことでも言っただろうか。 「……まったく、このシスコンは」  一言だけ呟いた後、何かを決心したかのように佳央理は急に席を立った。 「ちょうど週末だし、今日は私に付き合いなさい!! 雨が気になる? 予報通りなら夕方には止んでるから大丈夫!! 晃司はね、もっと妹離れしないとダメ。私がせっかくそれに付き合ってあげようって言ってるんだから、感謝しなさいね!?」  「おいおい……」  こうなった時の佳央理はもう誰に止められないのは、俺は付き合いだしてからのこの一月ほどで痛いほど理解している。  だが、この積極性がありがたくもある。妹の世話にかまけて人間関係を広げなかった俺にも、顔の広い彼女を通じて大学内での友人が随分と増えたものだった。 「晃司? どうしたの?」  妹に送る連絡のメールの文面を考える俺を、佳央理が不審そうに見つめる。 「なんでもない。じゃあ、行くか」  こうやってすぐに妹のことを考えてしまうからシスコン呼ばわりされるんだろうなと苦笑し、俺は佳央理の後を追った。    * * *    『端元』という表札の文字が、自分の姓だと納得できるようになったのはいつのことだろうか。   「……ただいま」  誰もいない家に向かって虚しく声をかける。  ため息をつきながら松葉杖を放り出し、靴を脱いて壁の手すりを掴んで何とか立ち上がる。いつも兄さんに補助してもらうのに慣れているから、たまに一人で帰ってくるとちょっと困る。  兄さんが迎えに来てくれない時の帰りはバスに乗っているけど、遠回りで時間が掛かるしバス停は家から遠いし疲れるばかりだ。 「それにしても妙よね、うちって」  我が家の内装を眺めて私は思わず独り言を漏らす。  階段から廊下から、ありとあらゆるところに私のために設置された手すりが、本来のフローリングの床と淡い色の壁紙に全く合っていないのは見ていて笑えるくらいだ。あまりにも統一感が無さすぎて、元よりこんなデザインなのかと勘違いしそうになってしまう。  といっても、私はこうなる前の家を知らないのだけど。  脚をこんな風にした交通事故。小学三年生の時だから、もう7年になる。あの事故で、同時に私はそれ以前の記憶も失った。  覚えている一番古い思い出は、病院のベッドで目が覚めた時に傍らにいた年上の男の子のことだ。自分の兄だと紹介された彼は、時間さえあれば付きっきりで私の世話をしてくれた。  なぜ母さんしか見舞いに来ないのかを疑問に思う頃には、既に離婚が成立していた。おかげで私は父親の顔を写真でしか知らない。  長期の入院とリハビリを終えて家に帰った時には、既に我が家は母さんによって手すりだらけの歪な家に改装されてていた。兄さんにはまた違う思い出があるようだけど、私にとっては知っている我が家の姿はこれが全てだ。  そういえば、以前から不仲だった父が家を去る決定的なきっかけになったのもこの偏執狂じみた母さんの仕業が原因らしい。 「こうなる前の家でも、きっと私は暮らしていたのよね」  疑問を声に出してしまい、ちょっと恥ずかしくなる。最近一人きりで家にいるのが多くなったせいか、独り言が増えたみたいだ。  こんな時に兄さんがいれば、お前は何を言ってるんだ、そんなの当たり前じゃないかと返してくれるのに。  病に倒れた母さんがあっけなくこの世を去ってしまってからもうすぐ一年になる。それからずっと、私達兄妹はこの家で二人きりで暮らしていた。  何はともあれ、リビングで兄さんが大学から帰ってくるのを待とう。うん、それが一番だ。  それならお茶でも入れようか。この前に──で新入荷したあの茶葉、兄さんに感想を聞いてもらうのも良いかも。  とりとめもなく広がる私の思考を、携帯電話のバイブレーションが遮った。電話を取り出せば兄さんからのメールだ。 「佳央理と遊びに行くことになった。今日は泊まるので夕食は要りません」  ため息をついて、携帯電話をしまう。誰もいない家の中が、急に広くなったように感じた。  つまり、私は週末の夜をこの家で一人寂しく過ごさなければいけないということだ。  早瀬佳央理さん。一月ほど前に付き合いだした、兄さんの恋人。私が一人きりで過ごすようになった原因。夕食が要らないくらい遅くなるって、きっと夜も二人で……  そこまで想像して、私は首を振って脳裏に浮かんだ想像を打ち消そうとする。  だけど、いくら努力しても兄さんと早瀬さんのことが頭から離れない。そのまま私は、眠れない夜を過ごしたのだった。    * * *    玄関で靴を履かせてやったり、学校へ送り迎えしたりする以外に、俺が妹を助けてやっていることがもう一つある。 「兄さん、入って大丈夫よ」  自分を呼ぶ声に応えて脱衣所のドアを開ければ、バスタオル一枚で椅子に腰掛け俺を待つ妹がいる。こぼれてくる髪が気になるのか、アップにまとめた頭にしきりに手をやるその無防備な様子に兄として多少の危機感を覚えないでもない。 「お前、布一枚だけで男の前にいるんだぞ。もう少しこう、恥じらいというか、危機感はないのか?」 「今さら恥ずかしがってどうするの? 昔は裸で一緒にお風呂に入ってたし」 「あれはほんの子供の頃だろう? ……まあいい。ほら、腕貸せよ」 「ん」  差し出された腕を取り、肩を貸して立ち上がらせる。  いつもしているように両手で左腕を支え、浴室のドアを開けて二人で中へ。配管やら何やらの関係で改装ができず、どうしても段差を解消できなかった脱衣所周りは俺が妹を家の中で介助してやる数少ない場所の一つだ。 「ありがと」  浴室の中の椅子へ下ろしてやれば、言葉すくなに妹が礼を言う。  脚を悪くしたばかりの頃はお互い子供だったのでこのまま一緒に入ったものだけど、さすがにこの歳でそれは無理だ。裸でじゃれ合いながらお湯を掛け合ったりしていた頃があったのが信じられない。 「じゃあ、外で待ってるからな。出る時には声をかけてくれよ」 「ん」 「あんまり長く入ってるとのぼせるから気をつけろよ。……呼んでも返事がないようだったら踏み込むぞ?」 「ん、わかった」  どうせ俺の言うことを聞かないであろうこともわかりきった上で、それでも一応は注意してやる。それにしても、どうしてこう女の風呂は長いのかね。何をやっているんだか。    * * *   「あんまり長く入ってるとのぼせるから気をつけろよ。……呼んでも返事がないようだったら踏み込むぞ?」 「ん、わかった」  ドア越しの兄さんの声に返事を返しながら身体を洗う。片足があまり動かなくても椅子に座っていれば何とかなるものだ。  昔は兄さんと一緒に入って、支えてもらったり洗ってもらったりしたものだけど。  湯船に身を沈めながら脱衣所の方を向けば、曇りガラスの向こうに兄さんの姿が見えた。踏み込む、なんて言っていたけど、もしここで私がふざけて悲鳴でも上げたらすぐに助けに来てくれるんだろうか。  ……二人で一緒に入ってた頃より、私、ずっと大人になったんだよ。胸だってほら、こんなに大きくなった。あの頃の子供の身体しか知らない兄さんが今の私を観たら、どう思うんだろう。どんな反応を返してくれるだろう。  この前の兄さんと早瀬さんの想像が、私と兄さんに入れ替わってはっとする。  わ、私ったら何を考えてるの!? 確かに兄さんのことは凄く大切に思ってるし、向こうも私を想ってくれているはずだけど、兄妹なんだしそんなのあるわけない。この「好き」は兄妹愛。それ以外のわけがないわ。  あり得ない想像に顔どころか思わず身体まで熱くなる。自分が裸であること、ドア一枚向こうに兄さんがいることを改めて意識してしまう。  どうも最近こんなことを考えてしまうことが多い。それもこれも、兄さんが早瀬さんと付き合うようになってからだ。   「ふう……」 「お前、大丈夫か? のぼせてるんじゃないか?」 「大丈夫。心配しすぎよ」  お湯の熱と、それ以外の原因で熱を持った身体を兄さんに支えてもらいながら浴室を出る。身体に巻いたタオルの布一枚だけを隔てて私と兄さんが密着しているのをどうしても意識してしまい、顔が赤くなる。 「どうした? 本当にのぼせてないよな」 「ん、大丈夫。着替えるから早く外に出て」  まだ何か言いたげな兄さんを追い出し、脱衣所で一息つく。  下着を身につけ、パジャマに袖を通す。兄さんは今ごろ二階の自分の部屋だろうか。  二人だけの家。自分一人だけではとても広く心細いこの家も、兄さんがいれば何も怖くない。私は一人で階段を上るのに苦労するので一階の部屋を使っているけど、多少のフロアの違いなんて私達の絆の前では障害にならない。  ……少なくとも、このとき、私はそう思っていた。    * 2 *   「……それでね、この前なんか……」 「えー、それありえなくない? 私だったら別れるなあ」 「結花はどう? ──のカレ、ひどいと思わない?」   放課後の教室。居残ったクラスの友人達と話し込んでいたら、いつしか皆の彼氏についてが話題になっていた。 「え、ええと……」 「あ、結花には大好きなお兄ちゃんが居たっけ。同年代の男の子なんて、相手にもならないか」 「お兄さんって、いつも車で送り迎えしてくれてるあの人のこと? へえ……」  口ごもる私をクラスメイト達が興味津々といった風に見つめてくる。こういう話は苦手だ。 「あ、ごめん。もう兄さんが迎えに来る時間なの」 「またそうやって逃げるんだから…… 結花、また明日。お兄さんによろしくね!!」 「結花ちゃん、お兄さんの友達を今度紹介してよね〜」  ちょうど兄さんが迎えに来る時間なのを良いことに、私はお喋りを切り上げて教室を出た。  放課後の穏やかな雰囲気に包まれた廊下を、松葉杖をついて一番端にあるエレベーターを目指して歩く。私立高ならではの、高い授業料にあかせて無駄に充実した設備の一つがこれだ。教室から離れているので使う生徒はあまりいないけれど、脚の悪い私にはこれほど助かるものはない。  今から校門を目指せば、兄さんと約束した時間のちょうど数分前に着けるはず。  そう思いながら待っていると、やってきたエレベーターには誰も乗っていなかった。 「彼氏……かぁ」  扉が閉まり、エレベーターが下降する心地の良い加速度が私を安心させる。背中を壁によりかからせて一息つきながら、私は事故当時を思い出す。  長期のリハビリから学校に復帰した私を迎えた同情と好奇心の入り交じった視線。それが冷たいものに変わるのに時間はかからなかった。  といっても、私が何かやったわけじゃない。正確に言えば、事故後の私がと言うべきだろうか。  覚えはないけれど、私は良く言えば勝ち気、悪く言えば横暴な少女だったようだ。その頃のことをすっかり忘れ、手のひらを返したかのように周りに助けを求めるようになったのだから、事故の前の私を良く思っていなかった娘達が黙っていないわけがない。  事故の前の「友人」だと聞かされていたクラスメイトたちの反応に引っかかりを覚え始めた時にはもう遅かった。あからさまに排除されはしなかったけれど、私を仲間に入れるグループはどこにもなくなっていた。  男の子達からも、態度が弱いのをこれ幸いに散々からかわれた。子供らしい残酷さと言えば聞こえは良いけれど、私はそれにとても傷つけられたものだ。  中学に上がっても、周りの女の子達の態度は変わらなかった。  男子は男子で、今度は逆に「大人しくて可愛らしい障害者の美少女」という頭の中に作り上げた偶像を私に投影してくる連中ばかりでうんざりさせられた。そのうえ記憶喪失で事故の前を何も覚えていないなんて、いかにもそんな連中好み。  そうやって近づいてきて、私が少しでも彼らの理想に合わければ失望して去っていくのだから世話はない。  走れないからって、不良連中に無理やり連れて行かれて乱暴されそうになったことすらある。ちょうど迎えに来てくれた兄さんが私を探しに来てくれて難を逃れたけれど、あの時は心の底から自分の不自由な脚を恨んだものだった。 「……っ!!」  思い出すだけで胸が痛む。兄さんと母さんが見方になってくれなかったら、私はきっと壊れていただろう。  だから私は、進学するにあたって知り合いの少ない家から離れた女子高を選んだ。  学力的にはだいぶ上だったけれど、あまり出歩けないぶん勉強する時間はいくらでもあったし、お金は事故の補償金があるから問題なかった。  バスで通えると思っていたのが実際にやってみると予想以上に疲れてしまい、母さんや兄さんの送り迎えが必要になったのはたった一つの誤算だけど。  今の学校ではただの脚が不自由な一般生徒になれる。同級生達は同情してくれるけれど、それも湿っぽいものじゃない。女子高なので私に変な理想を投影してくる男の子達もいない。  高校生になって、私は記憶にある中では初めて学校が気楽に過ごせる場所になっていた。    だけど、私が一番落ち着くのは歪に改築されたあの家だ。昔のことを何も覚えていない分、あの家だけが私が「端元結花」として生きてきた事故までの歳月を私に実感させてくれる。昔からの知り合いのいない学校で過ごしていると、果たして本当に自分に過去があるのか疑ってしまうのだ。  去年の夏休みに母さんが病気で亡くなって、面倒を見てくれることになった遠くの親戚からは一緒に住まないかとの誘いを何度も受けた。兄さんも乗り気だったみたいだけど、私はどうしても嫌だった。  家族写真の背景で写っているリビング。壁の隅に残る落書き。私が小さい頃に穴を開けたと聞かされている壁紙の傷。それら全てが消えてしまったら、事故の前に「端元結花」が存在したことを証明するのはいったい何になるのだろう。  自分の恐怖に何の合理性もないのは判っているけれど、私はあの家から、どうしても離れる気になれなかった。    * * *   「へえ、あれが晃司の妹さんかあ。高校生だよね? ずいぶん大人っぽいんだ」 「大人っぽい? あいつが? 佳央理、どこ見たらそんな感想が出てくるだよ」   信号待ちの車の中。校門に立って俺を待つ妹の姿を見て、助手席から佳央理が言う。 「毎日接してると判らないのかな。周りの娘達と比べてみなさいよ。全然雰囲気が違うじゃない」 「そうか? 俺には別に何か変わりがあるようには思えないけど……」  話しているうちに信号が青に変わる。俺の車のエンジン音を聞いた妹が、俯いていた顔を上げるのを横目で見つつ、校門の近くに車を横付けする。 「兄さん、この人……?」 「結花さんだっけ。私、早瀬です。はじめまして。聞いてると思うけど、お兄さんの……」 「彼女なんですよね。知ってますよ」  助手席から降り立った佳央理が、俺が何か言う前に妹に自己紹介していた。言葉は穏やかだけど、なんだか張り詰めた空気が漂っているように感じるのは気のせいだろうか。 「ほら、話は後だ。今日は助手席に佳央理が乗るから、お前は後ろな」 「ん」  後部座席左のドアを開け、妹の腕を取って乗せてやる。片足にあまり体重をかけられない妹にとってはこうした乗り降りも一苦労だ。  校門近くに車を止め妹の手を取る俺を、行き交う女子高生達は目をやりすらしない。一見すると車に無理やり連れ込もうとしているようだけど、何度もやっていればそれは日常の風景になってしまうのだろう。 「……晃司。こんなこと、毎日やってるの?」 「俺が早く帰って迎えに行ってた時はいつもこんな感じだな。あと、朝はいつも送ってやってる」 「ふうん……」  なんだか納得がいかない顔をする佳央理と共に車に乗り込み、三人で改めて自宅へ向かう。 「兄さん、どうして今日は早瀬さんが乗ってるの?」 「佳央理がお前に会ってみたいって言ってさ。二人だけだから部屋も空いてるし、それなら家に連れてきても良いんじゃないかってことで」 「そうそう。私、大学の女子寮住まいだから晃司を家に呼ぶってできないし。あと、結花ちゃんに一度会ってみたかったの」 「そうですか……」  それきり口をつぐんでしまう妹の様子に、車内の空気が重くなる。妹を乗せるまでは軽口をたたき合っていた俺と佳央理の間にもそれに釣られ沈黙が広がってしまう。  結局、そのまま俺たちは家に着くまで一言も話さないままだった。     「話には聞いていたけど、本当に手すりばっかり……!!」 「結花がああなった時に、おふくろが大枚はたいて改造したんだよ」 「病院だってここまではしないんじゃない? よほどこの家自体に愛着があるのね……」  兄と早瀬さんの会話を聴きながら松葉杖を置く。玄関の段差に腰をかけ、兄が靴を脱がしてくれるのを待つ。 「そういえば、この家って妙に玄関の段差が高いわよね」 「だから、こうしてやらないといけないんだよ」  ひざまずいた兄が私の足を取って靴を脱がしてくれる。ソックスだけになった足が玄関のたたきに触れないように左脚を兄さんに支えてもらいながら、手すりを伝って私は立ち上がる。 「え、何それ……?」 「こうしてやらないと結花はまともに上がれないんだよ」  何か珍しいものでも見るような目で早瀬さんが私達を見る。別に介助としては当然のことだと思っていたんだけど。何かおかしいのだろうか? 「佳央理、夕飯は何が食べたい?」 「兄さん、冷蔵庫の中身を確かめてから喋ってよ……」  早速キッチンに向かった兄さんの問いかけをよそに、早瀬さんは妙な歓声を上げながら我が家の中を見て回っている。本当に話を聞かない、自分勝手な人なのね。 「何? もしかして、晃司が作ってくれるの?」 「俺と、こいつの二人でな」  急に兄さんから頭をなでられてびっくりする。それを聞いた早瀬さんが私を不安そうな目で見る。 「うちの料理はいつも俺と結花の二人作業だよ。心配するなって」 「ん、そうなんです」 「二人作業って、結花ちゃんも料理するの? 危なくない?」  私達二人の答えに、なおも納得がいかない様子の早瀬さん。 「結花の料理は大したもんだぞ。おふくろ仕込みの本格派だよ」 「ん」  兄さんのお墨付きを聞いても安心できない様子の早瀬さん。結局、実際に私達が作った料理を食べてもらうまで早瀬さんの態度はずっと変わらなかったのだった。     「それじゃ、俺たちは上の部屋にいるからな。何かあったら声をかけてくれよ」 「結花さん、料理美味しかったわよ。びっくりしちゃった」 「毎日兄さんと一緒に作ってますから……」 「あと、佳央理は今日泊まっていくから」 「よろしくね、結花ちゃん」 「……ん」  夕食後、二階の兄さんの部屋に上がる二人と別れ、私は自室にこもった。  私が兄さんと夕食を作っている間も、早瀬さんに周りをうろうろされて凄く迷惑だった。片足が不自由だからって杖を使えば歩けない訳じゃないし、まして立てない訳じゃない。  そしてここは私が事故からの数年を過ごして慣れ親しんだ我が家だ。台所だって私が使えるように手すりを完備しているし、専用の椅子に座ってほとんどの作業はこなせるようになっている。  口には出さなかったけれど、私が何かやらかさないか心配していたのが行動からありありと判る。看護学生って言ってたっけ。そういう「患者扱い」が、私のような者には一番気に障るってことが判らない身でもないだろうに。  カーペットの敷かれた床に脚を楽にして座り込み、適当にファッション雑誌を取り出して眺める。普段は兄さんと一緒に過ごす夕食後の夜も、一人になってしまえば手持ちぶさた過ぎる。  学校の宿題もないし、クラスの友人にメールや電話をしたりする気分でもなかった。「兄の恋人が家に来て憂鬱」だなんて、ブラコンだとからかわれるに決まってる。別に、私と兄さんはそんな関係じゃないのに。  することもないなら、お風呂に入ってすぐに寝てしまおう。  そう思った私は部屋を出る。手すりにすがって廊下を歩き、階段に来ればすぐ上が兄さんの部屋だ。 「兄さん!! 兄さん、お風呂に入るから手伝って!!」  私の張り上げた声が虚しく響く。もしかして、二人で盛り上がっていて私の声が聞こえなかったとか?  先ほどまでの騒々しい早瀬さんが思い浮かぶけど、私はそれ以上に不安になる。本当に、話をしているだけ……? 「兄さん!! どうしたの!?」  もう一度叫んでみたけれど、二階からは何の応えもなかった。  ……そうだ、自分で二階に上って様子を確かめてみれば良いんじゃない。  傾斜が急なので、私はこれまで家の階段を兄さんに支えてもらわないと上らないようにしていた。  でも、一段ずつ時間をかければ私にだって我が家の階段は上れるはずだ。そう思いつくと居てもたってもいられなくなる。  どうせ早瀬さんが騒いでいるだけなんだろうけれど、胸に芽生えた不安は実際に確かめてみないと消えそうにない。  決心した私は、一段ずつゆっくりと階段を上る。右足と両手に主に体重をかけるので、身体に妙な負担が掛かって疲れがひどい。  だいぶ時間をかけて二階に上れば、すぐ右側が兄さんの部屋だ。  何を話しているんだろう。ドアに耳を付ける。 「……あんっ!!」  押し殺した甲高い声。どこかで聞いたようなその声が、私の身体を凍り付かせる。これ、もしかして早瀬さんなの? 「あっ……晃司、こーじ、好き、だいすき!!」 「佳央理…・・!!」    ああ、わかっちゃった。  そりゃそうだよね。ふたりは恋人同士なんだし。夜に二人きりになったら、そういうことしちゃうわよね。あの女、何が「私に会ってみたかった」よ。結局は兄さんと二人きりになりたかっただけじゃない。  脚の悪い私が一人で二階まで上がってくるなんて、きっと思っても見なかったことなんだろうな。    結局、お風呂は一人で入った。兄さんの支えがないのでふらついて、出る時に脱衣所と浴室の段差で転んでしまってとても痛かった。  身体だけでなく、心までも。    * 2 *   「ねえ晃司、お腹減ったー 何かつくってー」 「お前なあ……」  俺のベッドの上で、Tシャツと下着だけの佳央理が自堕落に要求する。全くこいつは……いや、お腹をすかせるような「運動」を二人でついさっきまでしていたのは事実だけど。  初めて佳央理を家に呼んでから数週間。梅雨が明け、夏の暑さに満ちた部屋の中で俺たちはくつろいでいた。  女子寮に住んでいる佳央理の部屋へは滅多に行けないし、ましてそこで事に及ぶなどもってのほかだ。ホテル代の出せない貧乏学生である俺たちが、大学の夏休みが始まってからこうするようになったのはある意味必然かも知れない。  まだ学校があるので妹は昼間家にいないのをいいことに、俺たちは昼間からふたりで乳繰り合っていた。  最初は何となく妹への罪悪感があった。だが、妹と二人きりの静かな生活が佳央理のおかげでいくぶんか明るいものに変わったのも確かだ。  最近は妹と佳央理が二人で食事を作ったりもしている。課程半ばとはいえ流石は看護学生、佳央理の介助する様子はなかなか様になっている。いくら技術的に上手でも、それを受け入れるべき妹の態度が悪いので効果はあまり上がっていないのが玉にきずだ。 「そういえばさ、晃司。思うんだけど、あれ、そろそろ止めた方がいいと思うのよね」 「あれ? 何のことだよ」 「結花ちゃんをお風呂に入れてあげたりとか、靴を履かせてあげたりとか。いくら兄妹だからって、そこまでしてあげるのはおかしいよ」  寝転がった姿勢から身体を起こした佳央理が、先ほどまでとは雰囲気を変えてこちらを見つめる。 「晃司って女の子には誰にでも優しいけど、なんか無理があるのよね。義務感混じりっていうの? そういうの、やっぱりあの妹さんがよくないと思うんだ」  その優しさに騙されて私はここにいるんだけど、と自嘲する佳央理に、俺は返す言葉もない。 「あなたは妹に縛られすぎ。もっと外を見ようよ。ついでに私のことも、もっと見てくれると嬉しいな」  俺の目をのぞき込みながらの佳央理の言葉に、その場から動けなくなってしまう。妹に縛られている? この俺が? そうなのだろうか。  脚が不自由で一人では満足に動けない妹を世話してやるのは、もはや俺の日常の一部だ。あまりにも当たり前すぎて改めて考えたことはなかったけれど、妹を優先した生活を送るのは不自然なのだろうか?  こんなところまで踏み込んできたのは佳央理が初めてだった。もしかして、彼女になら俺と妹の過去を話しても…… 「ただいまー 兄さん? 兄さん!! 帰ってるの? あれ、この靴って……?」   帰宅した妹の声が、二人の間の呪縛を解く。 「じゃ、ちょっとあいつが呼んでるから。結花も帰ってきたんだし、もう少しきちんとした格好しとけよ」 「はいはい。まったく、晃司はいつも私より妹さん優先なんだから……」  不満げにむくれる佳央理をベッドの上に残し、階段を下りれば玄関に座って俺を待つ妹の背中が見える。 「早瀬さんと会うのもいいけど、ちゃんと私を迎えに来てよね。最近バス通学ばっかりでもうくたくた」  表情は見えなくとも、怒らせた肩と所在なげにぶらぶらさせている脚が機嫌の悪さを教えてくれる。こんな状態で佳央理と会わせたら、また一悶着がありそうだと俺は胃を痛くするのだった。       「お兄ちゃん、わたしもいっしょにいく!!」  うるさい妹の声がする。 「お兄ちゃん!! お兄ちゃん、おいていかないでよ!!」  今日は──達と、隣町のゲーセンに行く日だ。来年にはもう中学生なのに、妹を連れて遊んでいるなんてかっこわるい。  この坂道を一気に駆け下り、それから自転車で飛ばしていけば妹の足では追いつけないはず。いくらあいつでも、迷子になればオレの後を追いかけて来ないで家に帰るだろう。  坂道の終点のT字路と、その向こうを流れる川が間近に迫る。どれだけスピードを落とさずこの角を曲がれるか、友人達と良く競争したものだ。勢いをつけすぎて曲がりきれずにそのまま直進し、川に落ちてしまった時は危うく溺れそうになったけれど、いまのオレはそんなヘマをする奴じゃない。 「待ってよ、お兄ちゃん!!」  さっきより近くからきこえる妹の声。そんなモノを気にしてはいられない。ブレーキのタイミングを計り、自転車を傾けカーブを抜ける。顔を上げれば目の前に迫るトラック。なんとかその横を抜けて立ちこぎでさらに速度を上げる。  恐がりの妹はきっとブレーキをかけながらゆっくりと曲がっているはずだ。いまのうちに横道に入ってしまえば、妹はもうついてこれないはず。  ……そう思い、さらに脚に力を入れた時だった。  自転車とは全く違う大きなブレーキの音と、そのあとに続く何かがつぶれるような音。あまりに聞き慣れないその音に、オレは思わず振り返ってしまう。  さっきすり抜けたトラックが、道路に真っ黒なブレーキ痕を残してT字路で止まっている。その向こうのぐちゃぐちゃになった塊は、目をこらせば自転車のようにも見える。  ……もしかして、あれは妹のものなのか? いや、そんなはずはない。勝ち気だけど根は怖がりの妹がそこまで無理はしないはずだ。  そう思いながらも、なんだか身体が震えてくる。  T字路に戻る。ぐちゃぐちゃの塊のそばには、妹が倒れていた。 「あれ、何……? わたし、どうちゃったの?」  ぼんやりとした目をした妹が傍らに立つオレを見て口を開く。その様子が、なんだかとても恐ろしい。  目をこらしてみると、地面に横たわる妹のスカートからでた脚は、まるで母親に付いて買い物に行ったスーパーで見たタコのようにまっかでグニャグニャとまがっていて────       「……っ!!」  目覚めた直後の頭を夜の冷気がさます。周りを見回せば慣れ親しんだ自分の部屋がある。 「ぅん…… 晃司、どうしたの? うなされてたみたいだけど」  傍らには恋人のぬくもり。握られた手から伝わる温かさが俺を現実に引き戻す。 「ちょっとな、悪い夢を見てたんだよ」 「ちょっと? 全然そんな雰囲気じゃなかったよ。晃司、凄く苦しそうだった」  佳央理に手を引かれ、再度ベッドに倒れ込む。その手が俺の頭をかき抱き、自分の胸に押しつける。 「いくつになっても、男の子は女の子の胸で泣いていいんだよ。それは男の子の特権」 「今さら何を…… ガキじゃないんだから、そんな事できるわけないだろ」  強がる俺を慈しむように抱く佳央理。その暖かさが俺の心を溶かしていく。  あの事故の後、病院で回復した妹からは事故の前の記憶がすっぽりとなくなっていた。幼い心にはショックが大きすぎたのかもしれない。  両親はちょうど家を空けていたから、なぜ妹があのT字路で車に突っ込むことになったかを知っているのは俺だけだ。  そこで真相を告白していれば、今でもこうして悪夢にさいなまれはしなかったのだろう。  だが、俺は言えなかった。一度嘘をついてしまえば、後はもうそれを塗り重ねることしかできない。「不注意に飛び出して車にはねられて頭を打って記憶をなくした妹」と「妹の世話を甲斐甲斐しく焼く兄」として生きていくことしかできなかった。  今までに、誰にもこの話をしたことはない。 「……妹さんのことなんでしょう? 見てたらわかるよ。晃司、きっと何か隠してるって」  佳央理に内心を言い当てられてぎくりとする。胸に顔を押しつけているので、彼女の表情は見えない。 「私、そんなに信頼されてないのかな。あんな身体なんだし、妹さんを大事に想うのはわかるよ。でも、彼女なのに何も話してくれないのって、凄く悲しいんだよ」  俺の頭を抱く佳央理の力が少しだけ強くなる。この声、まさか泣いてるのか? 「ねえ、晃司。もっと私を見てよ。あなたの目はいつだって妹を見てる。それは私といる時だってずっと。私、もうそれに耐えられない」  声を震わせながらの佳央理の懇願に胸が熱くなった。そうだ、彼女になら…… 「……結花がああなったのは、交通事故のせいだって前に話しただろ」 「うん、聞いてる。やっぱり、何か事情があるんだ?」  いったん身体を離してお互いに見つめ合う。息を吸い、俺は決意して話し出す。 「あの事故、俺のせいなんだよ。…………」  そう、こうやって分かち合っていけばいいんだ。妹にだって、いつか事故の真相を告白して赦しを請えばいい。今の一方的に奉仕するだけの関係から、そうして初めて俺たちは前に進めるはずだ。  佳央理に向かって罪を告白しながら、俺はそんな希望を抱いていた。    * * *    兄さんと早瀬さんが二人で部屋にこもってしばらくしてから、私は苦労して二階へ昇る。  何をしているか確かめる? そんなのわかりきったことじゃない。  そう思いつつも、私は盗み聞きするのをどうしても止められない。気がつけば、早瀬さんが泊まっていく時にはいつもこうして過ごすようになっていた。  今日は学校の行きも帰りも兄さんが乗せてくれたから、あまり疲れていない。  久しぶりに二人きりで過ごせるのかと思って期待してたから、帰ってきて家のドアを開けたら早瀬さんが待っていた時はとてもがっかりした。  私達を見て最初に言うことが「おかえり晃司。部屋、掃除しておいたから」だなんて、奥さん気取りか何かなの? ここは私達の家なのよ。    早瀬さんへの怒りを込め、階段を一段一段踏みしめながら上る。二階に上がればそこはもう兄さんの部屋だ。  座り込んで脚を休めながらドアに耳を付けながら、こうしているところを見つかったらどうなるのだろうと思う。  早瀬さんにはきっと軽蔑される。兄さんには嫌われてしまうのかな。  だけど、私の知らないところで兄さんがあの女とよろしくやっているということ自体にもう耐えられなかった。  そこまで考えたところで、頭を切り換えて部屋の中の声に集中する。 「……結花がああなったのは……あの事故、俺のせいなんだよ……」  耳を澄ませて聞こえた衝撃的な一言に、私の身体は固まった。  私がこんな脚になったのは、兄さんのせいなの?   事故より前のことは全く覚えていない。周りからはただ交差点で飛び出したと聞かされていたし、聞かされ続けているうちに私自身でもそんな風に納得していた。勝ち気で元気の良い少女だった事故の前の私なら、そのくらいしでかしておかしくないと独り合点していた。  兄さんを追いかけていたのが原因だったなんて、今初めて知った。兄さんが私を世話してくれるのが、その罪悪感が元だったなんて。 「大丈夫。晃司は全然悪くないよ。ただの不幸な事故。そう、事故だよ…・・」  早瀬さんが白々しい慰めの言葉をかけているのが聞こえる。何よ、私と兄さんの間につい最近になって割り込んできたくせに。  なんの冗談なの、それ。私を世話して良いのは兄さんだけ。兄さんだって、それを望んでいるんでしょう? 私をこんな身体にしたことに罪の意識を持っているのなら、一生かけて謝り続ければいいのよ。そして私は、一生かけてそれを受け続けるの。独り立ち? そんなの必要ない。  部屋の中から響きだした甘い声が、ドアの前に座り込み独り言をつぶやく私の目をさます。  あーあ、どんなにきれい事を言ったって、やっぱりそうなっちゃうのよね。くだらない。    * 3 *    二人とも夏休みに入ったので朝夕の妹の学校への送り迎えはもうない。母さんがこの世を去ってから、初めての二人だけの夏休みだ。  看護実習で遠くの病院に行っているせいで佳央理ともこの一週間会っていない。実習は今月一杯続くので、再会はしばらくおあずけだった。 「買い物に行きたいわ」  昼食後に冷房を利かせたリビングでくつろいでいると、やってきた妹が開口一番にそう言った。ご丁寧にもよそ行きの服に着替え、すました顔で俺を見つめている。部屋に引っ込んで何かやっていると思えばこの準備をしていたのか。 「暑いから後にしようぜ。冷蔵庫の中はまだいっぱいだし、何を買いに行くんだよ」 「買い物って言ったら食料品のことだけ? 兄さんの発想は相変わらず貧困ね」  玄関で待ってるから、と言い残し俺に反論する間を与えず妹は去っていく。追いかけて廊下に出てみれば、妹はもう玄関に座り込んで俺を待っているところだった。  あの様子では、俺が何を言っても聞きそうにない。  遺産や事故の補償金は後見人になった母さんの親戚が管理している。そこから出ている俺たちの生活費はそれほど余裕があるものではないけれど、幸いたまに贅沢するくらいは許されるだけの額はあった。 思えば、妹がこうして自分から出かけようとするのはだいぶ久しぶりだ。日用品の買い物なんかは一緒に行っていたけれど、あれはまた別だろう。 「今日は学校に行くんじゃないから、そっちのスニーカーにしてね、兄さん」  俺が靴を履かせてくれることに何の疑いも持っていない妹の様子に、少しだけ胸が痛くなる。佳央理にはあんな風に言われていたけれど、こうやって無邪気に信頼されると俺はどうしても抗えなかった。 「──で茶葉を買って、あとは新しいビーズも欲しいかな。あとね、夏服!! 服が欲しい!!」 「結花、無駄遣いは程々にしとけよ」  妹の腕を取り、玄関から駐車場までの道を歩く。そう言えば、妹がこんなにはしゃいでいるのを見るのは久しぶりだ。何があったのかは知らないが、家にこもってばかりよりはこちらの方がよほど良い。  事故に遭う前の妹は自転車で近所を駆け回り、俺が友人と遊んでいると勝手に混ざってくるような少女だった。小学校の低学年だったのを差し引いても、かなり活発な部類だったと思う。  それが記憶を失ったのを境に一変してしまった。紅茶や緑茶から聞いたこともないような海外産のお茶まで、我が家には妹が集めた大量の茶葉コレクションがある。中学に入る頃からはビーズアクセ作りにも凝りだして、リビングで散らかしているのを母さんによく叱られていた。  妹のたっての希望で、最寄り駅に隣接したショッピングモールに行くことになった。  駅までは家の前の坂を下りていった方が近い。朝夕の送迎の時とは違い、少しばかり渋滞する坂道をのろのろと下る。  ふと歩道に目をやれば、小学生くらいの少年達がほとんどブレーキを掛けずに自転車で駆け下りていった。 「……あんな事して、車とぶつかったりしないのかしら」  同じように外を眺めていた妹の独り言に思わず動揺してしまう。自分に起きた事故の真相については知らないはずだが、それでも俺は責められているように感じてしまうのだった。    結局、買い物先では荷物持ちをやらされたあげくモールに併設のレストラン街で夕飯までおごらされてしまった。  だが、こうやって妹が外に出歩くようになるのは悪いことじゃない。俺と二人で家に閉じこもっているよりも、外の世界に興味を持って積極的になってくれた方が  そしていつか、俺と妹がそれぞれ独り立ちする日が来るのだろう。  帰り道の車の中。とりとめもなく、しかし心から楽しげに今日の出来事について話す妹に相づちを打ちながら、俺は佳央理の言葉を思い出していた。  * * *   「兄さん……」  その名を呼びながら、兄の匂いの染みついたシーツをかき抱く。  私の身長からすると少し大きいベッドに潜り込み、胸一杯に兄の匂いを吸い込みながら転がる。  兄さんは大学の用事で出かけているから今日は夕方まで帰ってこない。早瀬さんは看護実習があるから来月までやってこない。  だから私は家に一人きり。でも、こうして兄さんの部屋で、兄さんの匂いに包まれていれば、それだけで安心できる。  早瀬さんが家に来なくなって私が最初にやったのは、兄さんの部屋の大掃除だった。ことあるごとに泊まりに来ていた早瀬さんの痕跡がそこかしこに残る部屋を兄さんと一緒に片付けた。  寝具だって全部洗濯に出した。だから、いまこの部屋にあるのは兄さんのものだけ。あの女の面影はどこにもない。  早瀬さんがいない今なら、兄さんを独り占めできる。それがなんだかとてもうれしくて、昨日も一昨日も二人で出かけてしまった。  二人でどこかに行くたびに、私を支えるのが一番上手なのは兄さんだと実感する。  早瀬さんにちょっとだけ手伝ってもらったことがあるけど、がさつで乱暴で、自分だけで歩いている時より疲れてしまうくらいだった。  兄さんと二人で出かけて凄く楽しかった。兄さん以外に私を支えられる人なんていないのよ。このままずっと兄さんに支えてもらいたい。このままずっと二人で暮らせたらいいのに。    ……でも、あの女みたいな奴らが私達の邪魔をするんだ。どうすれば良いんだろう。    あ、わかった。    私が兄さんに「そう言うこと」をさせてあげれば良いんだ。妹だからってどうして遠慮していたんだろう。そうすれば、あの女なんて兄さんには必要なくなるのに。私と兄さん、二人だけで全てが完結してしまう。凄い、なんて素晴らしい思いつき。自分がどうしてこの考えに辿り着かなかったのか不思議でならない。自分自信の頭の良さに感激して、あまりのことに興奮が止まらない。 「兄さん…… あんな女、すぐに要らないようにしてあげるからね」  一人きりの家の中で、私はそっとつぶやいた。    * * *    ここ数日、人が変わったように俺を連れ回すようになった妹に付き合っているので夏休みなのに忙しくてかなわない。  佳央理が実習に行って暇になるかと思ったものだけど、実際のところは予想とは正反対だった。 「兄さん、お風呂手伝ってよ」  兄妹二人での夕食を終え、皿を洗っていると妹から声がかかった。 「私、今日はちょっと脚が疲れちゃって。兄さんに支えてもらわないと転んじゃうと思うの。待ってるから早く来てね」  佳央理からはあんな風に言われていたが、まだ俺は妹が風呂に入るのを介助し続けていた。疲れた妹がもし転んだらどうしようと思うと、むげに断ることはなかなかできない。  だが、子供の頃に一緒に入っていた習慣を何となく続けてしまっているだけで、俺が風呂を補助してやるのは冷静に考えればおかしいのかもしれない。  佳央理に指摘されるまで気づかなかった自分は、きっとどうかしているのだろう。 「兄さん、準備できたわ」  脱衣所からの呼び声に考え事を中断し、妹の元へ向かう。どうせまた、タオル一枚で無防備にしてるんだろう。  あいつもそろそろ年頃だ。今までは浮いた話の一つも聞いたことがないけれど、彼氏の一人も作ったら良いんじゃないだろうか。  その意味でも俺と一緒に風呂に入っているのは問題だ。  ドアの向こうで待っているだろう妹にかける言葉を考える。  何はともあれ、いつものような態度ではダメだ。そう決意して俺は脱衣所に入る。 「お、お前、なんだそれ……?」 「ん、暑かったから」  脱衣所の中には、身を隠すそぶりもなく、一糸まとわぬ姿で俺を見つめる妹がいた。  タオルで身を包んでいる時に見慣れた細い肩と華奢な鎖骨の下で、大きめの部類に入る佳央理ほどではないにせよ、年相応に育った乳房が身じろぎと共にわずかに揺れる。  子供の頃、二人で一緒に風呂に入っていた頃の幼児体型とは大違いのすっきりとくびれたウェスト周り。  いつも二つに結んでいる髪は、今は下ろして背中の中頃まで流されている。日焼けのない白い肌と、真っ黒な髪のコントラストが何ともなまめかしい。  事故の傷痕もあらわな左脚と、綺麗な肌の右脚。幼いながらそれなりに整ったプロポーションの上半身と、左右アンバランスな下半身の対比が言いようのない背徳感をかもし出す。  小首をかしげてこちらを見やるその無邪気な笑顔が、逆に何か怖さを感じさせた。 「どうしたの? 今日は暑いし、兄さんも一緒に入らない?」  あられもない姿に驚き固まる俺を引き寄せ、服に手をかける。抵抗しようとする間もなくベルトを外したズボンが落ち、下着も下ろされて下半身があらわになる。  そのまま上着に手をかけようとし、椅子に座った状態からでは手が届かずに妹がすねて頬をふくらます。 「むー 兄さん、もしかして私と一緒に入るの、いや?」  軽い口調とは裏腹に、拒絶を許さないかのような問いかけ。下手に拒絶するとどんなかんしゃくを起こされるかわかったものではない以上、ここは従っておくべきではないだろうか。  風呂に入る時の介助は止めると言う話は、今日でなくてもできることだしな。   「ほら、一緒に入ろ」  めいめいで身体を流した後、腕を支えて湯船の中に入れてやった妹からの誘いに俺は目をむいた。 「この中に二人でか!? 流石に無理だろ。俺はシャワーだけでいいから、一人で入ってろよ」 「大丈夫よ、膝を抱えれば二人で入れるから」  姿勢を変えた妹が、俺の腕をしっかりとつかんだまま自分の右側に空けたスペースを示す。 「いや、そこまでしなくても……」 「兄さん。一緒に入りましょう」  妹の手が俺の腕をつかむ力が次第に強くなる。湯船の中から引っ張られているせいで、危うく転げ落ちそうになる。 「……わかったよ」  こうなった時に妹には何を言っても通じないのは判っている。仕方なく、俺は二人で並んで湯船に納まることにした。 「痛っ!!」 「おい、大丈夫か?」 「ん。ちょっとぶつけちゃった。……こうしてると、昔を思い出すね」  狭い湯船に二人で入っているため、互いの身体が密着してしまう。左半身に感じる柔らかい、しかし佳央理の身体とは違い微妙に骨張った感触。その細さが、俺に妹の身体がまだ発達の途上であることを教えている。  身じろぎするたびに触れる位置が変わるのがくすぐったい。一度などは胸のふくらみに肘が当たってしまったけれど、何も気にしていないような妹の顔を横目に見ていると俺は何も言えなかった。  二人無言で湯船につかるうちに、そろそろのぼせそうになってくる。 「兄さん、引っ張って」  湯船の中から無邪気に手を差し出す妹を引き上げながら、俺は何かとてつもない過ちを犯してしまったような気がしていた。   「兄さん? まだ起きてる?」  妹の声が部屋のドアの向こうから響く。 「喉が渇いてるんじゃないかと思って。お茶を淹れてきたの」 「お前、ここまで上ってこれるようになってたのか……?」  俺の疑問に答えず、パジャマ姿の妹が水筒と紙コップを入れたカゴを提げて入ってくる。いつの間にこんな事ができるようになったんだ? いつも二階に上る時には俺が補助してやっていたのに。 「はい、兄さん」  床に座ってお茶を紙コップに注いだ妹が、そのままにじり寄ってくる。着崩したパジャマから除く鎖骨と、胸元の肌の白さに否応なしに先ほどの風呂を思い出してしまう。 「結構上手く淹れられたと思うんだけど…… どう? 美味しい?」 「あ、ああ。この前の奴と茶葉を換えたんだろ? こっちの方が深みがあって……」  「何言ってるのよ。私はいつも──を使ってるって前に言ったじゃない」  家からあまり出なくなってからお茶にこり出した妹からいろいろと話は聞いていたけれど、未だに覚えられていなかった。それに、いまはそんな話をする気分では全くない。  出してくれたお茶を飲み、気を落ち着ける。向かいでは当の本人が濡れてほつれた髪を弄っていた。 「結花。ちょっとお前に言いたいことがあるんだ」 「なあに? 階段ならこのあいだ上れるようになったのよ。そのうち兄さんを驚かそうと思って言ってなかったんだけど」  顔を上げこちらを見る妹。無邪気な返事の声とは裏腹に、深く、黒く、俺の視線を吸い込むようなその目に圧倒されそうになる。 「そのことじゃない…… いままでお前のことをいろいろと世話してきたけど、そろそろ終わりにしようと思うんだ」 「それで?」  貼り付いたような笑みを浮かべながら聞き返す妹に向かい、意を決して告げる。 「車で送ってやるくらいはしてやる。でも、それ以上はもう止める。お前だって来年には高三なんだ、そろそろ自立しないと」  風呂上がりの火照った身体を冷ますためか、妹がパジャマの前を引っ張って風を入れている。ボタンを開けたノーブラの胸元の危うさがやけに目に付く。 「風呂だって、今度から一人で入らないとダメだ。階段を上れるんだからそのくらいできるだろう? いつまでも俺が入れてやるわけにはいかないのは、お前だって判ってるはずだ」  いったん言葉を切り、冗談めかして続ける。 「お前にも気になる奴の一人や二人いるだろう? ああいうのは、好きな男にさせておけよ」  妹をこんな身体にしたのが自分だという罪悪感は未だに消えない。だが、それだけに縛られ、勝手な使命感を妹に押しつけて生きるのが幸せなわけはないんだ。  向こうからしたって、俺にいつまでも付き合わされるのはきっと迷惑なはずだ。  そう、これで俺たち兄妹は本来の姿に戻るのだ。いつまでも今のようなゆがんだ関係を続けてお互いに益があるわけがない。 「へえ…… 兄さん、そんな風に言って、私から逃げるつもりなんだ」  薄い笑みを貼り付けたまま、妹が言う。逃げる? 何を言っているんだ? 俺は、ただお前を解放してやろうと…… 「私をこんな身体にしたのは兄さんなのに、今さら一人で生きていけなんて言うんだ。それであの女と二人でよろしくやろうって言うんだ。私、全部知ってるのよ」 「結花? 何を……?」 「兄さんがあの女に寝物語で話してるのを聞いたから、なにもかも知ってるの、私の事故のこと」  なにもかも知ってる? 佳央理に話してたことだと? 混乱する俺をよそに、妹はどこか遠くを見るような目をして淡々と続ける。 「兄さんは一生私の面倒を見るの。兄さんは一生私に償い続けるの。兄さんは一生私を世話するの。兄さんは一生私を支えるの。兄さんは一生私と一緒。……だって、私がこんな風になったのは全部兄さんのせいなんだもの。兄さんの残りの人生はね、私のためにあるの」  足を引きずり、膝立ちで妹が近寄ってくる。 「その代わり、あの女がさせてるようなこと、全部私が代わりに兄さんにやってあげるよ。部屋でだって、外でだって、車の中だって、兄さんがしたいなら私の学校でだって……何でもやってあげる」  妹が俺の手を取り、自分の左脚に当てる。 「これからも、ずっと、一心同体でいようね……」  抱きついてきた妹の勢いに押されて二人で床に倒れる。のしかかる妹の肉付きの薄い身体をパジャマ越しに感じながら、唇を奪われた。 「兄さん、兄さん、にいさん…… 大好き、離さない、許さない……」  さんざん俺の口内を味わった後、恍惚とした表情のまま妹が俺に身体をすりつける。うわごとのように熱っぽい声で呟き続ける声と、その中で覗かせる俺を射貫くような深く冷たい目。  ここで突き飛ばして逃げてしまえば、妹の脚では俺を追いかけてこれないだろう。だが、果たしてそうやって逃げた後で妹の面倒を誰が見るというのだ。  独り立ち? そんなもの、俺たち二人には初めから無理だったのかも知れない。妹の頭をなでてやりながら、俺はぼんやりとそんなことを思った。     * 4 *    あの衝撃的な告白から一夜が明けた。目が覚めれば、俺の胸に顔を埋めて眠る結花がいる。  一緒に寝たいとごねる結花に押し切られ、俺たち二人は狭いベッドを二人で分け合って眠っていた。  佳央理のものとはまた違う、少女特有の甘い匂いが俺の鼻を満たす。 「んん…… あ、おはよ。兄さん」  身体を起こそうとした俺を、結花の手が引き戻した。そのまま二人抱き合った状態でベッドに転がる。 「おい、そろそろ起きるぞ。手を離せ」 「別にいいじゃない、このまま寝てたって。出かけなきゃいけない用事なんてないんでしょう?」 「いや、それはそうだがな……」  結花のせがむままに、ベッドに寝たまま事故の直後の二人とも子供だった頃の思い出話をしてやる。事故の頃に中学に入ろうかという歳だった俺よりも、ほんの子供だった結花の方が鮮明に記憶しているのには驚いてしまった。  日が高くなってからようやく起き出し、二人で昼食を作る。食事の後は二人でリビングのソファーに座り、ベッドの中でしていた話の続きだ。  それにしても、話している時に結花が片時も俺の手を離さないのには参ってしまう。その上、俺が少しでも一人でどこかに行こうとすると必ず付いてくる。俺がトイレに行くとドアの外で待っていられたのは驚いて笑ってしまった。    もちろん、夕食後の風呂は二人で一緒に入った。  だが、昨日とはさらに雰囲気が違っていた。二人で身を縮めながら湯船に入っていると、横から結花がときおり視線を投げかけてくるのを感じる。  狭い湯船を二人で分け合っているのだから身体が密着するのは当然だが、結花の身体は必要以上に俺に押しつけられているようだった。  いいかげんのぼせそうになってきた俺が湯船を出ようとすると、結花から声が掛けられた。 「兄さん…… 私の身体、どうかな?」   上気した頬。潤んだ瞳。兄妹の間で交わすには、あまりにも色気づいた結花の表情。 「どうって、何がだよ」 「女の子としてどうかってこと。早瀬さんほどじゃないけど、私だってこんなにおっぱいが大きくなったんだよ」  なるべく見ないようにしていた結花の身体が、その言葉で改めて目に入ってくる。 「ほら、触って確かめて」  抗う間もなく俺の左手が取られ、結花の胸に押しつけられる。小振りなふくらみが手の中で柔らかく形を変えた。 「兄さんがたくさん触ってくれれば、すぐに早瀬さんくらい大きくなるよ。そうすれば、あの女がさせているようなことも全部できるようになるから、待っててね、兄さん」  左手で俺の手を自分の胸に押しつけながら、結花の右手が湯船の中で俺のモノに伸びる。 「おいっ!! 何を……」 「兄さん、最近ずっと早瀬さんとしてないから溜まってるでしょう? もうこれからは我慢しなくていいのよ、私がいつでもすっきりさせてあげる」  どう考えても異常すぎる状況だった。何とか逃げようとするが、狭い湯船の中で結花にのしかかられて身動きが取れない。 「気持ちいい? 気持ちいいでしょう?」  熱を帯びた目で俺の瞳をのぞき込みながら結花が訊ねる。その稚拙で単純だけど強い刺激に、ここしばらく佳央理と会っていない自分のモノはあっけなく反応してしまう。 「くっ……!!」 「あは、いっぱい出たぁ…… 兄さん、いくら何でも溜めすぎよ。お湯がすっかり汚れちゃったじゃない」  結花が白濁を手にすくって俺に示す。どこか幼さを残した身体と顔立ちにそぐわない妖艶な仕草に、思わずぞっとしてしまう。 「これからは、こんなに我慢する必要はないんだからね。兄さんと私はいつも一緒なんだし、したくなったら言ってくれればすぐに抜いてあげる。だから……」   「これで、あの女は要らなくなったわよね? 兄さん」    * * *    事故の真相について知っていると兄さんに教えたあの夜から数日。私達はずっと家から外に出ていない。    昨日の夜はお風呂であれこれ頑張った上に部屋でもさらに頑張ったから、兄さんは疲れてまだ寝ている。私もなんだか頭がぼうっとする。  早瀬さんには目を離した隙に兄さんの携帯を借りてメールを送っておいた。  私と兄さんはこれからずっと一緒なのだから、そこに邪魔な貴女が入ってくる余地はないですよ。貴女が兄さんにさせて上げているようなエッチなことだって、私は全部できるから貴女はもう要らないの。もう私達の家に来ないで。もう兄さんに近づかないで。  これくらい言っておけば大丈夫かな。もちろん、メールを送った後は着信拒否設定にしておいた。  でも、ああいう話を聞かない騒々しい人には直接会って言って聞かせるのが一番かもしれないけど。  それにしても、精液ってあんなに喉に絡みつくんだ。もっと練習して上手く飲み込めるようにならないと。盗み聞きしていた時は何でも簡単にできるように思えたけれど、やっぱり経験がないと難しいものなのね。  昨晩の兄さんとのことを思い出しながら苦労して一階に降りる。洗面所に向かう私を、けたたましくならされる玄関のチャイムが呼び止めた。  そういえば、あの女の看護実習もそろそろ終わりだっけ。  あーあ、取り乱しちゃってみっともない。やっぱりあんな女、兄さんにはふさわしくないわ。 「晃司、早くあんな妹から離れて…… あなた!!」  ドアを開けた私を見たあの女が顔を歪ませる。これじゃあ美人も台無しね。 「ええと、どなたでしょうか?」 「何を白々しい……!! 結花ちゃん、晃司はどうしたの? 彼と会いたいの。すぐに連れてきて」 「メール、見てないんですか? もう貴女は要らないんですよ」 「要らないって、何を根拠に……!!」 「だから、貴女がさせているようなことは、全部、私が代わりに兄さんにやってあげるってことです」  怒りに我を忘れたあの女に、懇切丁寧に教えてあげる。私より四つ歳上なんだっけ? 全然そんな風に見えない。 「兄さんは私をずっと助けてくれるし、私はその見返りに兄さんの身の回り全てを世話してあげる、そういうことです」 「あなたが晃司を世話!? その脚で何が……っ!!」  自分が何を言おうとしていたか気づいたのか、急に途中で口をつぐんで言葉を切るあの女。  いくら普段は平等に振る舞っているふりをしたって、結局「歩けないかわいそうな女の子」として私を見てるんだ。誰だって同じ。そうじゃないのは兄さんだけ。 「早瀬さん、看護師を目指していらっしゃるんですよね? だったら、私みたいな「障害者」にそう言う物言いはやめた方が良いですよ」  あくまでも笑顔を崩さずにあの女に語りかける。ここでヒステリックに怒ったり騒いだりして私まで相手のレベルに落ちる必要はないんだ。 「あなたねぇ……!!」  なおも何か言いつのろうとするあの女を尻目に、私はドアを閉めて鍵をかける。もちろん同時にチェーンロックも忘れない。  ドアを閉める瞬間、驚いたように私を見つめていたあの女の表情が滑稽すぎて笑ってしまう。頭ごなしに強い態度でかかれば、こんな弱々しい「障害者の妹」なんてすぐに排除できるとでも思ってた? 残念。 「……っ!! ……!!」  あの女の金切り声が微かに聞こえる。うるさいったらありゃしない。 「結花? いま、誰か来てなかったか?」 「ちょっと面倒なセールスが来てただけよ。もう追い返したから、兄さんは部屋に戻って休んでてよ」 「でも、まだドアを叩いてる音がするぞ。それにこの声、どこかで聴いたような……?」  あの女、いつまで居座るつもりなんだろう。 「気のせいよ、気のせい。昨日の夜に頑張ったから、兄さんは疲れてるのよ。ほら、一緒に朝風呂なんてどう?」  まだ兄さんは吹っ切れてないみたいだ。ここであの女の顔を見たら、ぐらついてしまうかもしれない。  そんな状態で会わせるなんてもってのほか。兄さんがもっと私のものになって、私がもっともっと兄さんのものになって、二人がもっともっともっとしっかり結ばれるまで、外の世界は私達にはおあずけ。    * * *  早瀬さんを追い払ってから数日。 「兄さん……? あれ、先に起きたのかしら?」  目が覚めると、珍しく兄さんがベッドにいなかった。最近はいつも一緒に寝起きしているので、それだけでとても不安になる。 「兄さん!? どこにいるの? 階段降りるから手伝って」  私の呼びかけにも返事はない。確かに一人でも降りられるけど、兄さんに支えてもらった方が楽なのに。  もうすぐ私の夏休みも終わりだ。学校が始まったら、また日中は兄さんと離ればなれの生活に戻ってしまう。新学期からの生活に思いをはせ、私は少し憂鬱になる。 「晃司さん、どうしてこんなことを……!!」  リビングに顔を出した私は途端に響いた怒声に身体をすくませた。リビングで、兄さんと見慣れない中年の女性が向き合っているのが見える。あれは……確か私達の後見人をやってくれている遠縁の親戚のはずだ。  ノーブラで兄さんのシャツをはおり、下着を身につけただけの私を見た親戚の小母さんの顔が、一瞬汚物を見るように歪む。  どうすればいいのか困って一応お辞儀をしてみたけれど、向こうは私を見ようともしてくれない。  仕方なしに自分の部屋を向かおうと、廊下に出てドアを閉める前の一瞬。 「晃司さん、貴方たちが何をやってるか、聞きました……」  去り際に耳に入った小母さんの言葉が、私の耳からずっと離れなかった。  久しぶりの自分の部屋は、なんだかとても落ち着かない。この部屋で一人で寝起きしていたのが信じられない気分だ。  ベッドに寝転び、枕を抱いて転がる。  わざわざ何をしに来たんだろう。あの人が我が家に来るのなんて、半年に一度もあればいい方なのに。 「私達が何をやっているか」なんて、ただ二人で暮らしているだけじゃない。何も悪いことなんてしていない。  小母さんが帰るまでの小一時間ほどが、私には果てしなく長く感じた。 「結花。さっきの話なんだけどな……」  部屋のドアを開けて入って来た兄さんの表情を見て、私は何か悪いことが起こったのを知る。 「この家を引き払って、一緒に住もう、だと」  兄さんが淡々と親戚の小母さんから聞いた話について説明してくれる。二人だけの暮らしには不便もあるだろうから、一緒に住もうと言うこと。既にこの家を売り払う手続きに移ろうとしていること。引っ越しの予定は兄さんが自由に動ける大学の夏休みのうち、つまり来月中だということ。   私はそれが聞こえないよう、必死で耳をふさぐ。  聞きたくない聞きたくない聞きたくない。この家を離れるなんて絶対に嫌。他の場所で暮らすなんて死んでも嫌。  ベッドの上でシーツを被っていやいやをしているうちに、諦めたのか兄さんは去っていった。でも、これでは何も問題が解決したことにならないのは痛いほど判っている。  あの女だ。どうやって調べたのか知らないけど、直接私に言って駄目だからってそんな手を使ってくるなんて。これが大人のやり方なの? 許せない。  私と兄さんが淫らにまぐわっているとか、どうせあることないこと吹き込んだんだろう。私は兄さんに世話してもらって、その代わりに私は兄さんを世話してあげて、二人だけで完結しようとしているのにどうしてそこにこうやって邪魔が入るの!?  兄さんと二人だけで暮らせなくなるなんて絶対に嫌。過去なんて要らない。いま、兄さんのいる現在さえあればいい。  ……でも、このままだとそれも奪われてしまう。ふと心に浮かんだ、兄さんと引き離された未来予想図がみるみるうちに脳裏に広がり、私の心を暗黒で塗りつぶす。  嫌、嫌、そんなのは嫌。どうすれば…… 私はどうすればいいの?  あ、わかった。  奪われてしまうのが怖いなら、その前に永遠にしてしまえばいいのよ。  兄さんと私。二人がずっと、永久に、一緒にいられるように。そのためには…………    ベッドの上で膝を抱え、兄さんと永遠に結ばれるためにどうすれば良いか考える私を、いつの間にか訪れた夕闇が包んでいった。    * * *    そして、結花の夏休みが終わる。   「兄さん、早くして」  玄関の段差に座って自分を待つ結花の声を聞きながら、俺は朝食の残りをかき込む。  頬をふくらませ、すねたように俺の方をにらむ結花と、その傍らに置かれた無骨なアルミの松葉杖。  ほころびかけの花のように清楚な制服姿の下に隠された肢体を、今では俺は余すところなく知っていた。  新学期の用意があるとかで、昨夜は久しぶりに結花と別々に寝た。  俺の夏休みが終わるまでに、小母さんからは引っ越しについての答えを出すように言われている。結花とはあれ以来何度も話し合おうとしたけれど、俺がその話題を出そうとするたびに部屋にこもって聞こえないふりをされるので全く進展していない。  今日、結花を学校に送っていったら、その後は後見人の小母さんと二回目の話し合いだ。そのことを考えると、俺は胃が重くなる。 「兄さん? どうかしたの?」  俺に支えられて歩きながら、結花が心配そうにこちらを見る。  宿題の残りでも片付けていたのだろうか、結花は夜中まで何かやっていたようだ。化粧いらずの若々しい肌も、目元にできた隈のおかげでいくらか疲れて見えた。  二人で支え合いながら玄関から駐車場へのアプローチを歩く。駐車場に着いてみれば、車の周りが妙に濡れていた。 「何でこんな濡れてるんだ?」  「きっと結露よ、結露。うん、それだけ」  それ以上の質問を許さないかのよう結花。不審に思う間もなく、結花は俺を無理やり引っ張るようにして助手席ドアの前へと連れて行く。 「ほら、早くしてよ」  些細な疑問を頭から振り払い、結花の腕を支えて助手席に乗せてやる。 「兄さん、今日もお願いね」  運転席に乗り込めば、松葉杖を抱えた結花が助手席からこちらを見つめながら言った。  その言葉にうなずきを返し、晩夏の朝陽を浴びながら俺は車を出す。   「この坂を下りるのも、これで最後かぁ……」  家の前の坂を下り始める瞬間、ぽつりと漏らされた言葉に背筋が凍る。  横目で助手席の結花を見る。まっすぐに前を見る視線、引き結ばれた口、膝の上で軽く組まれた手。ただならないその様子に、何か違和感を覚える。そして、      ブレーキが、利かなかった。      まだ朝早いせいか、前には一台の車もいない。追突の恐れがないのは幸いだけれど、それはつまり減速せずに坂道終わりのT字路、つまりは川岸の柵に突っ込むと言うことだ。いくら踏み込んでも、相変わらずブレーキの利く気配は全くない。  恐怖に震えているはずの結花を横目で見る。そこにあるのは、先ほどと変わらず微動すらしない姿。   「兄さん」   「もう、終わりにしましょう」    助手席から身を乗り出した結花が俺の首にすがり付く。無理やり横を向かされ、唇を奪われる。そのままのしかかるように抱きつかれ、手がハンドルとシフトレバーから離れる。  結花の舌に口内を犯されながら、俺はだんだんと車が加速していくのを感じる。この速度では、きっと坂道終わりのガードレールを突き破って川に落ちてしまうだろう。  しがみつくように俺を抱きしめながらキスしてくる結花の思い詰めた表情を見て、これが仕組まれたものだろうことを知る。だが、今さらそれに何の意味があろうか。  そうか。やっと俺たちはあの事故の頃に戻れるんだ。今度こそ、二人でこうして一緒に……  坂道終わりのガードレールを突き破る衝撃でエアバッグが作動し、そのすぐ後に水面に落ちる衝撃が俺たちをゆらす。  ここで結花をふりほどいて脱出すれば、少なくとも俺だけは助かるだろう。だが、それで何になる。 「兄さん、今後こそ、一緒だよ……」  次第に浸水する車の中、結花が泣きそうな顔をして俺に告げる。    拒絶を恐れるかのように震えるその肩を優しく抱きしめ、俺たちは永遠を誓った。    * 終 *   「早瀬です。このたびはご愁傷様でした……」  受付で香典を渡し、会場に入る。半分ほど埋まった椅子の向こう側には、こぢんまりした部屋の大きさに比べて不自然なくらい豪勢な祭壇があった。  その豪華さも、なんだか薄ら寒く感じてしまうのはわたしの勘違いではないのだろう。周りを見回しても、私と同年代の何人かの他はなんだか身が入っていないのがあからさまだ。  会場の片隅、集団で泣きはらしている制服姿の少女達は晃司の妹の同級生だろう。どこか冷め切った葬儀場の雰囲気の中で、彼女たちだけが異質だった。  壇上には見慣れた晃司と、見慣れない晃司の妹の遺影が掲げられている。こうしてみると、どこにでもいるような普通の少女に見える。  わたしを拒絶したあの狂気に満ちた表情は、自分の妄想だったのではないかと思えてくるくらいだ。 「心中だったんでしょう? あの二人……」 「しっ!! 声が大きいわよ」 「でも、確かに、ブレーキを掛けた痕がなかったって……」  洗面所に行こうと廊下に出ると、二人の親戚らしき中年の女性達が只ならない噂をする声が聞こえた。周りの皆は聞こえないふりをしているけれど、つまりそれがこの場の総意なのだろうか。  喪主は二人の遠縁の親戚だとかいう中年の女性が務めていた。肉親が現れない時点で、この葬儀の何かがおかしいのがよく判った。  晃司。あなたに何があったの? 結花さん。あなたはいったい何をそんなに思い詰めていたの?  わたしが彼ら二人と接したのは、今年の夏休み始めにかけてだけだ。二人で平穏に暮らしてきたはずの晃司と妹の生活が、こんな結末で終わってしまったのはわたしのせいなのだろうか?    わからない。    少しでも気を抜くと、晃司の妹への嫉妬で気が狂いそうになる。肉親だからって、二人だけの兄妹だからって、こんな事許されるわけがない。  わたしから恋人を奪っていったあの少女の、杖をついた儚げな姿。  いっそ遺影に焼香の灰を投げつけでもしてやろうか。そうできたらどんなにすっきりするだろう。 「どうして、どうしてこんなことになっちゃったのよ……」  街に一つだけの葬祭会館から出れば、嘘のように外は晴れわたっていた。夏の終わりの太陽に照らされた郊外の街並み。一瞬だけ車と人通りの絶えたそこに、わたしは死者の国を視る。目をこらせば、陽炎の向こうに松葉杖をついた制服の少女とそれを支える青年の姿が見える気がした。      わたしでは、彼を、彼らをあの家から引き離せなかった。いつも何か言いたげな、心の中に気持ちをため込んだようにしていた彼の妹の表情がどうしても心から離れない。    夏休みの終わり。喪ったものを想い、わたしは少しだけ涙を流した。