存在確率のパラレルライン
いくぶんか涼しくなった秋の風が、病院の玄関から外に出た俺の頬を撫でた。
「オカリン、大丈夫? どこも痛くない?」
俺の隣にぴったりついたまゆりが訊ねてくる。まったく、いつまで経ってもこいつは心配性だな。
「この鳳凰院狂真が、あの程度の怪我でダウンするわけが無かろう!! これも『機関』からの追跡を撒くためなのだ……」
「じゃあ、まゆしぃがお世話してあげてるときに、痛いって言ってたのも嘘だったの?」
俺の腕を取るまゆりが、少しだけ悲しそうな声をする。上目遣いで見上げられながらそんな風にされると、元気になった証として昔のような中二病台詞を吐いてみたことに罪悪感を感じてしまう。
「……いや、いくぶんか真実が含まれていたことも確かだ。まゆり、ありがとうな」
「どういたしまして。なんたって、まゆしぃはオカリンの人質から恋人にクラスチェンジしたんだもんね」
判りきったこととはいえ、改めて口にされるとどうにも気恥ずかしくてならない。だが、そんな俺の内心をよそに、まゆりは心の底からの笑顔を浮かべて続ける。
「恋人なんだもん、辛いときにお世話してあげるのは当然だよー」
話をしながら歩いているうちに、病院の隣にある小さな公園の中に来ていた。入院中はベッドから動けないままずっと眺めていた光景の中に自分が居る違和感が、逆に俺がやっと日常の世界に戻って来れたことを教えてくれる。
俺の腕を放して軽やかに一歩前に出たまゆりが、向き直って俺を見つめる。
「退院おめでとう、オカリン。まゆしぃはオカリンが元気になってくれて、とってもうれしいのです」
色づき始めた公園の木々を背に、あの夏より少しだけ厚着をしたまゆりがふんわりと微笑む。変化のない病室の風景に慣れた身には、一ヶ月の入院の間にすっかり秋へ変わってしまった街の風景がとても目新しく感じてしまう。
だが、それはきっと喜ぶべき事だ。救えないことを何度も悔やんだあの夏と少しだけ違うまゆりの姿も、あの繰り返しの夏よりも少しだけ涼しくなった風も、俺が未来へたどり着けたことを教えてくれる。
「まゆり……」
だからきっと、俺は。
「もう、離れないでくれ……」
公園の木々を背に立ち止まって俺を見つめるまゆりに近づき、その小さな身体を抱きしめる。
「うん。オカリンも、まゆしぃをずっと捕まえててね」
UPX前で紅莉栖を見送ったときのように、まゆりは俺の胸に顔を埋めてくる。
「幸せに、してください」
「ああ」
「離さないで、いてください」
「ああ」
「ずっと大好きで、いさせてください」
「ああ」
いつかと同じやりとり。だが、紅莉栖を見捨てまゆりを選んだあの時とは違う。
この"シュタインズゲート"では、まゆりと紅莉栖の両方を俺は救うことが出来たのだ。
「それじゃ、帰るぞ。まゆり」
「うん」
抱きしめた身体は離しても、繋いだ手は離さない。俺たちはそのまま、秋葉原駅へと歩き出した。
*
「悪いな、ダル。このタイムマシンは二人乗りなんだ」
「……ここでその台詞を選ぶオカリンのセンスに僕はうんざりだお」
「ほえ? ダルくんも乗りたかったの?」
ほとほと呆れたように首を振るダルと、不思議そうにそんな俺たちを見つめるまゆり。後ろでは鈴羽が無言で俺を待っている。
これからタイムマシンに乗って過去を変えに行くというのに、いつも通りに接してくれるダルとまゆりがありがたかった。
まゆりの場合は、そんな難しい事を考えていない気もするが。
「岡部のおじさん、そろそろ行かないと。出発の時間は──から──の間って指定されてるんだ」
ずっと黙っていた鈴羽が厳かに告げる。
あまりにも非現実的なタイムマシンという存在も、冗談の入り込む隙間もないくらいに真剣な鈴羽の様子を見ているうちに真実味を帯びてくるのだから不思議なものだ。
第三次世界大戦。EUとロシアによるタイムマシン開発競争と、その果てにある戦争。
「最後に、もう一度だけ確認させてもらう。あの日に戻って紅莉栖を助ける。これが、まゆりを救うことに繋がるんだな」
「そう。いまのままだと、この世界で一年後に椎名まゆりは死ぬ。それは絶対に避けられない『運命』 岡部のおじさんなら、私の言っている意味が分かるはず」
「まゆしぃは、いきなりそんな事を言われると怖くなってしまうのです」
「安心しろ、まゆり。俺がお前を死なせない」
鈴羽のただならない表情に、流石のまゆりも眉を曇らせている。
その表情を見て、俺は思わず軽くまゆりを抱き寄せる。ダルや鈴羽の前だろうが関係なかった。
「危ないことはしちゃだめだよ、オカリン」
俺の胸に抱かれながらまゆりが俺のみを案じてくれる。
「まゆしぃは、まだまだこれから先もずっとオカリンの人質じゃなきゃいけないんだから」
「人質じゃなくて恋人にクラスチェンジしたんじゃなかったのか?」
「えへへ、そうだったかもー」
俺の腕に抱かれながらはにかむまゆり。そうだ、俺はこの笑顔を守るためなら、なんだってやってやる。
あの三週間で、何度も血反吐を吐くような思いをしてたどり着いた未来を奪われてなどたまるものか。
「まゆり、ちょっと待ってろ。『神様』に会わせてやるからな」
「……うん、待ってる」
「お別れの挨拶は終わった?」
無言で見守っていてくれた鈴羽が言う。
「俺達は過去を変えて、またすぐにここへ戻ってくるんだろう? こんなの、別れでも何でもないさ」
このタイムマシンはα世界線での鈴羽のものと違い、未来へと行けるのだ。何もこれが今生の別れになるわけじゃない。
あっという間に帰ってこれるはずなんだ───
そして────俺は、紅莉栖を殺した。
「あ、ああああああああ!!」
抱きとめた身体から噴き出た鮮血が俺の手をを染めていく。
俺に体重を預けた紅莉栖の華奢な身体は、もうぴくりともしなかった。
どうして。
また駄目だったのか。
こんなはずじゃなかった。
自らの行動を悔いる言葉ばかりが頭の中を回り続け、それ以外のことを全く考えられなくなる。
そうだ。
このまま、ここに居るわけにはいかない。
「最初の俺」が、血まみれの紅莉栖を抱いた「今の俺」を目撃したらどうなる? これまでに俺のたどってきた道筋が、それだけで全て否定されてしまう。
それだけは、させてはならない。
どうやって屋上まで戻ったかは覚えていない。血まみれの俺が誰にも見とがめられずにタイムマシンまで戻れるのも世界線の収束のなせる技なのだろうか。
気がつけば、俺はタイムマシンの扉の前に立っていた。鈴羽の姿は見えないということは、もう乗り込んで待っているのだろうか?
「鈴羽、居るか?」
扉を開けて中をのぞき込む。そこで俺の目に映ったのは、ここに来るときの冷静な様子とは全く正反対の傍目に見て判るほど混乱した鈴羽の姿だった。
「岡部おじさん、どうしよう……?」
背を向けたまま鈴羽が返事する。その間も、彼女は操作パネルのキーをひたすら押し続けていた。
「ダメ、動かない…… どうして? 父さん、このタイムマシンは、未来にもいけるんじゃなかったの?」
「何を、言っている?」
「あたしは、2036年から真っ先にこの時代に来たの」
抑揚の全くない、気味が悪いほど落ち着いた鈴羽の声。
「1975年を経由してきたって言うのは嘘」
「どうしてそんな嘘をついたか? 過去に戻る前に、岡部おじさんが私にそう言えって指示したからじゃない!!」
「そうすれば牧瀬紅莉栖を救えるとしか教えてもらえなかった。過去と未来を知ってる岡部おじさんの言葉だから、何の疑いもなく信じてた。
「私はそう教わった。教わったとおりに行動しただけ。そうすれば何もかも上手くいくって言われてたのに!!」
それが、絞り出すように叫びに変わっていく。悲痛なその声に俺は呆然と立ち尽くすしかない。未来へ、戻れないだと……?
「ねえ、もしかして」
タイムマシンの操作パネルと格闘するのを止めた鈴羽が、ゆっくりと振り向く。
俺を見つめるその瞳は、あの夏、ラボメンとして共に過ごした日々には見たことがないくらい悲しみに歪んでいて。
「あたしたち、失敗、しちゃったのかな……?」
「……っ!!」
全身を襲う衝撃に目を開ければ、やけに低い位置からラボの中が見渡せた。
どうやら談話室のソファーから転げ落ち、それで目が醒めたらしい。
「なんだ、夢か……」
夢オチとは何とも芸のないことだと自嘲しながらソファーに座り直す。そうだ、俺は退院した足でラボの様子を見に来て、そのままソファーで休んでいて──
「オカリン、まだ残ってたの……?」
いつの間にか、まゆりがドアを開けてラボの中をのぞき込んでいる。階段を上る足音に気付かないとは、思っている以上に夢にショックを受けていたらしい。
「まゆり、先に帰っていろと言っただろう」
確かまゆりはメイクイーンにバイト復帰の挨拶をして、そのまま実家へ帰っていたはずだ。
「うん。でも、メイクイーンで挨拶が終わってラボに来てみたら、電気が付いてたから……」
ラボはメイクイーンから秋葉原駅への帰り道にあるとはいえ、わざわざ見に来ることもなかろうに。こうやって、まゆりにまだ心配をかけてしまっている自分の不甲斐なさが嫌になる。
「オカリン、こんな所で寝てたら風邪引いちゃうよ。一緒に帰ろう」
「ああ、そうするか。まゆり、夕飯は食べたか? まだならアキバで何処か……」
「駄目だよ。今日は退院祝いをするから絶対に連れてきてって、オカリンのお母さんから言われてるもん」
寄り道してきたのはそれも理由か。携帯電話を取りだしてみれば、確かに両親から何回か着信が入っていた。
病院からそのまま帰ると伝えていたから、遅くなったのを心配していてもおかしくない。紅莉栖の身代わりに刺されたことだって「ラジ館でいきなり通り魔にあった」としか周りに伝えていないのだからなおさらだろう。
「ほら、オカリン早く」
上がり込んできたまゆりに手を引かれて立ち上がる。
ラボから出ながら開発室を振り返れば、紅莉栖が手を加えた部分が消滅して単なる遠隔制御可能な電子レンジになった未来ガジェット8号機が見えた。
「夢は世界線の間の記憶を伝達している役目をしているのかも」
紅莉栖がいつだったか、そんな事を言っていたはずだ。まゆりも「怖い夢」として自分が殺される世界線の事を認識出来ていた。それなら俺のさっきの悪夢も、どこかで「あったこと」なんだろうか。
携帯電話のメールボックスを意味もなく開いてみる。紅莉栖を殺してしまった俺に、「最初の俺を騙せ」と真の計画を伝えた十五年後の俺からのムービーメール。"シュタインズゲート"にたどり着いた今、あのメールの痕跡はどこにもなかった。
まゆりと二人で夕方の秋葉原を歩く。中央通りならまだしも、ラボがあるような裏通りはこの時間でもあまり人通りがない。
ふとしたタイミングで視界から人気が絶えてしまうと、あの最初のDメールを送った直後の風景が蘇ってくる。思わず繋いだまゆりの手を強く握れば、一瞬不思議そうにしたまゆりがそのまま俺の手を握りかえしてくれる。
「……?」
大丈夫だ。俺はまゆりを助けた。まゆりはここに居るんだ。
握った手の温かさに俺の心をよぎった不安はたちまちのうちに溶けて消え去っていった。
中央通り沿いに出てくればさすがに人通りも増え、さっきのような不安を感じることもない。
「見て見て、オカリン。──の看板が出てる!! PSPに移植されるんだって」
ビルの壁に掲げられた携帯ゲーム機への移植を告知する広告を眺めてまゆりが声を上げる。確かあれは、ちょっと前に流行したアクションゲームだったか。
「まゆしぃはPSPを持ってるから、あとはオカリンが買えば対戦して遊べるねー」
「ふ、俺の天才的頭脳と、未来ガジェット研究所の貴重な研究予算を携帯ゲームなどで浪費していいはずがない。まゆり、残念だがお前だけで……」
「まゆしぃはオカリンと対戦して遊びたいのです」
「むう……」
見かけによらず運動神経が良いのと同じ理由なのか、まゆりはアクションゲームや格闘ゲームも妙に上手い。ゲームセンターの雰囲気が合わないのかアーケードでプレイすることはほとんど無いため、その対戦相手はもっぱら俺だったが。
中学生の頃、俺がその手のゲームに妙に熱中していた影響でプレイし始めたまゆりにあっという間にゲームの腕で追い越されてしまったのは苦い思い出だ。
「まあ、余裕が全くないわけではないしな。考えておくとしよう。しかしまゆりよ、ラボメンとしての本分を忘れるなよ!? 携帯ゲームで遊ぶよりも、お前にはやることがあるはずだ……」
「えへへ、じゃあじゃあ、まゆしぃとお揃いの色にしようね。あ、でも来月には新型が出るって言うから、オカリンはそっちの方が好きかな? オカリン、すぐに買うのと、新型まで待つのと、どっちがいい?」
すっかり俺が携帯ゲーム機を買うことを前提に話を進めていくまゆり。ペースに乗せられている気もするが、こんなに喜んでくれるならそれもいいだろう。もしかするとこれが、世の男たちが妻や恋人の尻に敷かれる心理なんだろうか。
秋葉原駅から電車に乗り池袋へ至り、更にメトロで二駅。そこが俺達の生まれ育った街だ。
最寄り駅から出て、夜の住宅街の中をまゆりの家の前まで送っていく。
「またこうやってオカリンに送ってもらえて、まゆしぃは嬉しいのです」
β世界線に辿り着き、まゆりに告白してからしばらく、こうやって家まで送ってやっていた記憶はある。
だが、ここはβ世界線とも違う"シュタインズゲート"だ。この世界線での八月半ばから九月半ば、すなわち入院する前までの俺が何をしていたのかは、こうやって他人の記憶を頼りに知るしかないのがもどかしかった。
俺からまゆりに告白して「人質から恋人にクラスチェンジ」させたのは確からしいのだが、逆に言えば確かなことはそれくらいしかなかった。
「では、ここでお別れだ。まゆりよ、息災でいるのだぞ」
「えっ!? オカリン……いつもの……は?」
「いつもの? いつものとは何だ?」
「むー 入院してからオカリンは何だか意地悪になってしまった気がするのです……」
だから、こうやって。「俺の知らない俺」の話をされるとどうしたらいいのかわからなくなる。
「入院しちゃう前のオカリンは、まゆしぃとお別れするとき、いつも……をしてくれたよね。オカリン、まゆしぃのこと嫌いになっちゃったの?」
昔の俺はいったい何をやっていたんだ。問いただそうにも、俺の目の前で顔を赤らめてうつむいているまゆりには下手に声をかけられない。
まゆりの様子を見るに、昔の俺がしていた「お別れ」とやらが相当に恥ずかしい物だろうというのが判るが……まさか、お別れのキスとかか!? こんな住宅街のど真ん中の公道で、しかもまゆりの家の前で?
「…………」
まゆりは何も言わないまま固まっている。流石に何もせずに別れてしまうのがまずいというのは、この手のことに慣れない俺にだって判った。
病室では人目があるからこういうことはできなかった。
鈴羽と一緒にタイムマシンで過去に戻る前、すなわちβ世界線での俺とまゆりは確かに恋人同士ではあったが、手を繋いで一緒に出かけるのがせいぜいだった。
だからこれは、俺にとっては、まゆりとの恋人としてのファーストキス。
「んっ……」
うつむくまゆりのおとがいに触れて上を向かせ、軽く口づける。上手くやろうとかそんな事を考える余裕なんて全くなかった。
顔を離した俺の前で、まゆりが先程とはまるで変わって満面に微笑みをたたえているのに心の底から安心する。
「オカリン、それじゃ、またねー」
まゆりは門の前で手を振って俺を見送ってくれている。
「ダルよ、俺はもう、お前の側には居られないようだ……」
幼馴染みの恋人を家まで送ってお別れのキスって、それなんてエロゲ!?と叫ぶ親友の顔が思い浮かび、俺はつい独り言を漏らすのだった。
*
退院の翌日。
ダルからのラボメンバッジが完成したとのメールを受け、俺は一人で秋葉原へと向かっていた。
まゆりは今日はメイクイーンでバイトだ。俺が入院中は看病のためにバイトを休んでいた反動で、今後はしばらくバイトに入る日を増やすことになったらしい。
休日の昼間の秋葉原の人混みをすり抜け、ラボのある裏通りへと急ぐ。ダルによると完成したバッジはラボに置いてあるとのことだった。
鍵を開けてラボに入れば、開発室の机の上にはピンバッジが並んでいた。
鈴羽が持っていたものを参考に、ダルを通して例の外人アクセサリー屋に頼んで作ってもらったラボメンの証。
"OSHMKUFA 2010"
岡部。椎名。橋田。牧瀬。桐生。漆原。フェイリス。そして、阿万音。今はもう俺の記憶にしか残っていないあの世界での、ラボメン八人の頭文字。
誰にも本当の意味を理解してもらえないだろうとも、何か形として残しておきたかった。
「まずは手近なところから始めるか」
ラボメン八人の中で一番ラボの近くにいるのは一階のブラウン管工房でバイトしている萌郁だ。
萌郁用のNo.6のバッジを取り出してブラウン管工房へ向かう。だが、ブラウン管工房のドアを開けようとしても鍵が開かない。
良く注意してみれば、室内からは灯りは漏れてきていなかった。
「まさか休みなのか? 何の掲示も無いが……?」
いつでも同じように客が居ないので来たときには気がつかなかった。そもそも、この店に定休日なんてあるのだろうか。
天王寺の連絡先は俺は知らない。知っていたとしても、あの親父にメールや電話は正直したくない。
他に工房の関係者で連絡先を知っている人物と言えば、鈴羽…… いや、この世界に彼女はいないんだ。
となると、残るはこの世界でのブラウン管工房でのバイト、桐生萌郁だ。
萌郁に工房が休みかどうか訊ねるメールを送る。送信後、携帯電話をポケットにしまう前にもう返信が来ていた。
「岡部君久しぶり!! もう退院できたんだ。今日はお店は休みなの。もしかして私に会いたかった? 退院して真っ先に私の所に来るなんて、君って意外と大胆なんだね。……なんてのは冗談として、今日は店長と綯ちゃんと一緒に──に遊びに行くから会えません。何か用事があれば…………」
ほんのわずかな時間でこれだけの長文。そして、普段の様子からは全く想像できない妙なテンションの高さ。
「……相変わらずだな」
もしかするとラウンダーやSERNなど関係無しに、これこそが萌郁の本質なのかもしれない。
この世界では、俺と萌郁はIBM5100を探すのを手伝った縁で知り合ったらしかった。入院中に彼女から送られてきたメールで俺はそれを知った。一度など天王寺や綯と連れだって見舞いに来てくれたりもした。
それにしても、ブラウン管工房は今日は休みか。
萌郁に渡せないとなると、次にすぐ会えるのはフェイリス……いや、彼女もメイクイーンで仕事中だろう。
そうなると、残るはダルとルカ子の二人になる。
この時間にバッジがラボにあると言うことは、どうせダルはメイクイーンにでも居るのだろう。
まずはあいつからだ、そう決めた俺はメイクイーンへと歩き出した。
「お帰りなさいませ、ご主人様!!」
メイクイーンの店内に足を踏み入れた俺を、メイドたちの挨拶が迎えた。
「狂真!! 久しぶりニャ。もう身体は大丈夫なのかニャ?」
「ああ。あの程度の怪我では、この俺の野望は止められないのだ」
「さすが狂真、あの『血の八日間』をくぐり抜けた男は違うニャ……」
なんだよそれ。相変わらず俺の話を拾って勝手に自分で設定を付け加えるフェイリスに、思わず笑みがこぼれる。
「何ニヤニヤしてるニャ? まさか、フェイリスの能力、『チャシャ猫の微笑み』の副作用が伝染したのかニャ?」
「いや、なに。ここは相変わらずだな、と思ってな」
「当たり前だニャ。フェイリスがオーナーをやってるメイクイーンがそんな簡単にクオリティが落ちるわけないニャ。先週中央通りにオープンした二号店だって、『一号店と変わらない雰囲気』って大人気なのニャ」
俺が入院している間に二号店が出来ていたとは…… 目の前の女子高生メイド兼社長の凄腕に思わず舌を巻いてしまう。
「あ、オカリ……ご主人様、お帰りなさいませ!!」
キッチンから顔を出したまゆりがこちらに気付いて声をかけてきた。メイド服に金髪のウィッグと猫耳、マユシィ・ニャンニャンとしての姿を見るのもずいぶんと久しぶりだ。
「ご主人様、注文は何になさいますか?」
まゆりに案内されてテーブルに付く。二号店に新規の客が集まっているのか、休日の午前中にもかかわらずメイクイーンの店内はそれほど混んではいなかった。
「コーヒーと、あとは……料理で何かお勧めはあるか?」
「えっとねー それなら、この『メイドの手作り猫まんま』かなあ? 今日の担当はマユシィなのです」
「担当ってことはまゆりが作るのか。猫まんま……?」
「まゆりじゃないよ、マユシィ・ニャンニャンだよー」
「まあ、せっかく作ってくれるのなら、注文してみるか」
「オカリン、ありがとう!! まゆしぃは頑張っちゃうのです」
「そこまでニャ!!」
俺とまゆりの会話に、いきなりフェイリスが割り込んでくる。
「お客さんとの恋愛は御法度ニャ。マユシィ・ニャンニャンは局中法度に背いたむきで切腹ニャ」
「え、えぇ!? フェリスちゃん、いきなりなに言ってるの……」
「おいフェイリス、まゆりが怖がってるだろ。冗談も程々にしとけよ」
「ニャーんてね。でも、他のお客さんも居るんだから、あんまり二人だけの世界に入るのは無しニャ」
小声で話していたとはいえ、確かに俺とまゆりは単なる客とメイドの関係を越えているように見えたのだろう。そこにフェイリスまで加わった俺のテーブルを見つめる他の客の目がだいぶ厳しい気がする。
「フェリスちゃん、ごめんね…… でも、こうやってメイクイーンでオカリンと会えるのがすごく久しぶりで、まゆしぃは感激なのです」
「そんなマユシィはとっても可愛いのニャ……あ、新しいお客さんニャ。お帰りなさいませ、ご主人様!!」
玄関の方へ声をかけたフェイリスに釣られてそちらを見た俺は、見慣れない組み合わせのカップルに目をむいた。
男の方、あれは……ダルか? だが、その隣にいる上品なお嬢様風の娘は誰だ?
「あれって、ダルくんの彼女なのかな?」
まゆりが挨拶をするのも忘れて俺に耳打ちする。俺は驚きのあまりそれに応えることも出来ない。
あいつ、いつの間に……?
「それでは、こちらのお席へどうぞ。……マユシィ、ほら、仕事に戻って」
フェイリスがダルたちを俺の隣のテーブルに案内し、小声でまゆりを叱る。
「ご、ごめんフェリスちゃん。オカリン、今日のシフトは──時までだから、またあとでね」
「オ、オカリン!? 居るなら居るって言ってくれよ」
まゆりが去っていくと同時に、ようやく俺のことに気づいたダルが裏返った声で言った。
「俺はさっきからずっとこのテーブルに居たんだが…… それより、ダル、その娘はいったい?」
「ダルさんのお友達ですか? はじめまして、私は"あまね"です」
橋田でなくダル呼ばわりと言うことはネットでの知り合いか何かなんだろうか。一目見ただけで俺にも高級品だと判る身なりは、秋葉原のメイドカフェにはあまりにも似つかわしくない。
お嬢様風に小綺麗にまとまったファッションの中で、長い髪の左右に付けた少女趣味のリボンが一つだけ浮いている。もしかして俺が知らないだけで、何かのキャラのコスプレなのだろうか。
「ダルニャンは、あまねちゃんとコミマで知り合ったのニャ。暴漢から救ってくれたダルニャンに、あまねちゃんはすっかりめろめろなのニャ」
「フェイリスさん、そんな……」
フェイリスの言葉に、ダルの連れの彼女は頬を赤らめてうつむいている。まさか、フェイリスのいつもの出任せじゃないのか?
「ダル、お前はフェイリス一筋じゃなかったのか!? 見損なったぞ親友よ」
「フェイリスを見捨てるのかニャ? ダルニャンはそんな男じゃないはずニャ……」
「ちょ、ちょ待てって。あまねちゃん、この人達の言うことは信じないように」
「そんな……嘘あつかいなんて酷いニャン。ダルニャンとフェイリスは将来を誓い合った仲だニャ。あの時の約束……忘れてしまったのかニャ?」
「してないしてない約束なんてしてないから」
傍目に見ていて滑稽なくらい必死で弁解しているダルを尻目に、当の彼女は上品に笑っていた。
「で、ダルよ。結局本当のところはどうなんだ?」
「夏コミのとき評論島で映画評論本を探してたら、マナーの悪い奴が居て、あまねちゃんを突き飛ばしたわけ。で、紙袋が破れちゃった罠」
「その時に、私を助けてくれたのがダルさんなんです」
「評論島ねえ。ダルよ、お前がそんなところに行っているとは知らなかったぞ。お前が興味有るのはてっきり男性向けのじゅうはちき……」
「オカリンストップ!! まあ、SF関係のすごい大御所が出てたんだよ。オタとしてはそのくらい抑えとくのは当然でしょ」
ダルが単なる萌えオタクなら、電話レンジとタイムリープマシンだって日の目を見ることはなかった筈だ。俺を"シュタインズゲート"へ到達させる切っ掛けになった鈴羽のタイムマシンだって、未来の俺とダルが作ったものだった。
普段はHENTAI極まりないが、やるときはやる男、それがこの親友の真の姿ということなんだろう。
だが、それでも……
「リア充は爆発しろ」
「ちょ、オカリンにそれを言われる筋合いは無いお……」
思わずダルの口癖が出てしまい、案の定本人から突っ込まれる。そんな俺とダルをきょとんとした表情で見つめる"あまね"さん。
「りあじゅう……? 爆発……? ダルさん、私の知らない業界用語か何かですか?」
「あまねちゃんは、そんな単語知らなくていいから」
"あまね" それにしてもどこかで聞き覚えのある単語だ。たしかこれは……そう、最初に鈴羽が名乗っていた姓が「阿万音」だったはず。
むろん、ただの偶然かもしれない。だが"阿万音"などと言う聞き慣れない姓を名乗っていた鈴羽と同じく"あまね"を名乗る女性がこの時期にダルと親しくしているというのが俺にはどうしても鈴羽の母親を連想させてしまう。
「……あの作品は実は裏設定がすごい罠。例えば──のシーンとか、ぱっと見なんだか判らないけど実は……」
「そうなんですか!? 私、なんだか難解な映画だと思って……誤解してました、ダルさん、もっと教えてください」
「も、もちろんOKだお」
映画について盛り上がりだした二人を尻目に俺は考え込む。
鈴羽は自己紹介で「阿万音」は母方の姓だと言っていた。だが、それすら偽名のようなものという可能性はないか?
何たって彼女は2036年の世界ではSERNと戦うレジスタンスだったのだ。そして、未来では俺とダルはレジスタンスの設立者だったらしい。
ゲルマン系の単語を作戦名に使うのが伝統になっていたりするあたり、鈴羽のレジスタンスは俺の中二病の影響がかなり色濃い。
そして、おそらくはダルの妻だって全くレジスタンスと無関係では居られなかったはずだ。
2010年に名乗っていたハンドルネームか何かを、そのまま組織内での呼び名にしたというのはあり得るのではないだろうか。
思案にふける俺を余所に、ダルと"あまね"さんの会話はどんどんディープになっていく。ダルの話に余裕で付いてきている所といい、そもそもコミマに来ていることといい、もしかしてこの娘もお嬢様風の見た目に反して俺たちと同類なのかもしれない。
こちらを気にしていないのをいいことに、知らず知らずのうちに"あまね"さんの横顔をまじまじと見つめてしまう。
そこに鈴羽の面影があるのかどうか俺にはわからない。だが、彼女が鈴羽の母親だろうがそうでなかろうが、楽しげな二人の姿を見ているとそんな事はどうでも良く思えてくるのも確かだった。
「今度、ルカ子に頼んで普通の料理を教えさせるか……」
まゆり……マユシィ・ニャンニャンが持ってきた猫まんまは、予想以上に凄い代物だった。
「オカリンだから特別製なんだよ☆」なんて言っていたが、俺は普通の飯が食べたかった。まがりなりにもメイクイーンは飲食店だ、食べられないものではない。むしろ、味だけなら美味しい方かもしれない。
だが、まゆりによれば「メタルうーぱさんをイメージしてみたんだー」と言う見た目が、なんというか、想像を絶していた。
いつだったかラボでまゆりと紅莉栖が料理をしたときも酷いことになった覚えがあるし、コスを作るのは上手くてもそちらの方面には役立たないらしい。
俺が必死で猫まんまと格闘している間、ダルと"あまね"さんは二人でずっと話し込んでいた。あまりの盛り上がりに割り込むこともできず、結局、俺はバッジを渡すという目的を果たせないままメイクイーンからいったん出ることにした。
メイクイーンの入っているビル裏の路地、外階段の下でまゆりを待つ。今日は早上がりでバイトが終わると言っていたから、そろそろ出てきてもいいはずなのだが。
「オカリン、おまたせー」
外階段をゆっくりと下りる音がひびき、まゆりが俺の前に現れた。
「久しぶりのバイトだったから、更衣室でみんなとお話してたら遅くなっちゃった。オカリン、ごめんねー」
いつもの服に着替えたまゆりが俺に頭を下げる。ほんの少し前までの装飾過剰な猫耳メイド姿と、普段の地味な私服姿。どちらも見慣れているはずなのに、こうしてそのギャップを目の当たりにするとなんだかどきりとする。
「それで、まゆしぃに渡したい物があるって言ってたけど……」
「これを渡そうと思っていたのだ」
まゆりの言葉に気を取り直し、ポケットから例のピンバッジを取り出す。
「オカリン、これ、なあに?」
知らないのも無理はない。このピンバッジのデザインの由来について、今この世界で知識……いや、記憶があるのはこの俺、ただ一人なのだから。
「ラボメンの証として、ピンバッジを作ってみたのだ」
「へええ、凄いねー これ、オカリンがデザインしたの?」
「まあ、そんなところだな」
このバッジの由来を説明したところでこの世界にそれを信じる人間は居ないだろう。単なる自己満足なのかもしれない。けれど、あの繰り返しの夏の思い出を、何かこうして一つ残しておきたかった。
たとえそれが、まゆりの死という悲劇に行き着くことが定めらた世界だったとしても、
何もかもを、なかったことにしてはいけない。
「まゆり、ちょっといいか?」
手にとってバッジを眺め回しているまゆりに断り、いったんそれを取り上げる。
そして一歩近寄り、襟元にラボメンバッジを留めてやる。もちろん、俺はまゆりを待っている間から装着済みだ。
「あ、オカリンとお揃いだー」
俺の白衣の襟元で鈍く輝くバッジをめざとく見つけたまゆりが喜びの声を上げる。
「ねえねえ、オカリン。これ、メイクイーンでバイトしているときも付けていい?」
「なに!? メイド服にこれを付けるのか?」
「だって、いつでもオカリンとお揃いがいいんだもん。メイクイーンの制服って、個人でちょっとだけアレンジして良いんだよ。だから、まゆしぃはこのバッジを付けてみようと思うのです。オカリン、いいでしょ?」
たかがバッジ一つとはいえ、俺とまゆりが同じものを付けていたら鋭いフェイリスが見逃すはずがない。そして、まゆりが付けているのに俺が外していたらまゆりはとても悲しむだろうし、そんな顔を俺は見たくない。
「バイト中に付けて何かあってなくしたら困るだろ。まゆり、私服の時だけにしてくれ」
「オカリンがそう言うならそれでいいよー でも、普段は絶対付けててね。まゆしぃ、お揃いにするんだから」
「まゆり、これはラボメンの証だから、俺達二人以外にもダルや、ルカ子や、その他のみんなにも渡さなければいけないんだ」
「そうなの? でも、そうしたらみんなでお揃いになるね。まゆしぃはそっちでも嬉しいのです」
ダルは例の"あまね"さんと二人で出かけるので今日はラボには来ないとメールしてきた。萌郁もブラウン管工房が休みなので、今日は会う機会は無い。もしかするとこの世界でも同じアパートに住んでいるのかもしれないが、いきなり訪ねるのはさすがにまずかろう。
フェイリスはまだ仕事中だし、そうなると渡せるのはルカ子だけということになる。
「まゆり、それでは残りのラボメンにバッジを授与しに行くぞ。まずはルカ子からだ」
「るか君かー 巫女服にそのバッジを付けたら、とっても格好良くなりそうだねー」
「当たり前だろう。どんなファッションにも完璧に対応できる、それがラボメンバッジなのだ]
いつものように他愛のない会話を交わしながら、俺達は神社に向かって秋葉原の人混みを抜けていく。
ポケットの仲には残りの六個のラボメンバッジが入っている。このうち渡せるのは四個だけだ。
残りの二つ、鈴羽と紅莉栖の分を渡すことは出来ない。
もしかしたら将来ダルとあの娘の間に鈴羽が生まれるのかもしれない。だが紅莉栖にこのバッジを渡す機会は恐らく未来永劫訪れないあろう。
新進気鋭の若き脳科学者、まして向こうはアメリカ在住だ。一介の大学生に俺に接点などあろう筈がない。
だが、それでも。俺が覚えている。それだけで十分なんだ。
「ねえねえオカリン、フェリスちゃんがね──」
まゆりの問いかけに相づちを打とうとしたところで、視界の端を通り過ぎた同年代の女性が目にとまる。
あれは……まさか……
「オカリン? どうしたの?」
急に立ち止まった俺にまゆりが不思議そうに尋ねる。だが、俺にはそれに答える余裕などない。
背格好も髪型もファッションの雰囲気も同じ。後ろ姿だけなら、どう見ても紅莉栖だ。
今までに何度もそんな女性を街で見つけてきた。そして、そのたびに失望してきた。
だが、今回は──
立ち止まった彼女が、ゆっくりと振り向く。
そこには、あの三週間を共にした眼差しが俺を見つめていて。
「やっと会えた」
「あなたを、ずっと捜していました」
「私、ずっと、あなたに会いたくて……」
こちらに近づいてきながら、彼女は感極まったように続ける。
「オカリン、この女の人……誰なの?」
まゆりがおびえたように俺の腕にすがりつく。無理もない、街中でいきなり見知らぬ女にこんな風にされたら俺だって逃げるだろう。
だが、今目の前にいるのはあの夏に苦楽を共にしたラボメンNo.4の助手なのだ。
「紅莉栖……だよな?」
「はい? ええと、確かに私は牧瀬紅莉栖です。貴方は……?」
いきなり名前を言い当てられたことに戸惑う紅莉栖。
「おかえり、クリスティーナ」
そんな紅莉栖に、思わず昔の呼び名で呼びかけてしまう。
「だから私は助手でもクリスティーナでもないって……え? 私、知らないうちに言葉が……」
「クリスちゃんって言うの? まゆしぃだよ、初めましてー」
「まゆしぃさん? あれ、あなた、私とどこかで……」
その様子を見て気づく。
これはきっと、俺の持つ"リーディング・シュタイナー"と同じものだろうと言う事に。
β世界線に到達した直後のまゆりも会ったことのないはずの紅莉栖のことをおぼろげに覚えていた。
つまり、もしかすると"リーディング・シュタイナー"は誰にでもある能力なのかもしれない。
世界線が変わり、何もかもが再構築されようとも。
夢や既視感という形で、記憶は蓄積されているんだ。
「ようこそ我らが未来ガジェット研究所へ。君は今日から栄えあるラボメンNo.4だ」
戸惑う紅莉栖にラボメンバッジを握らせてやる。
「新しいラボメンの人なんだー まゆしぃもラボメンなんだよ。よろしくね、クリスちゃん」
「私はラボメンなんてものになった覚えは無い!! あれ、また勝手に言葉が……」
「クリスちゃん、大丈夫?」
いつか、まゆりや紅莉栖や、他のラボメン達にもあの夏の記憶が蘇るのかもしれない。
未来は、判らない。
運命は、定まっていない。
やり直しは、出来ない。
だからこそ、人は今を精一杯に生きるんだ。
今年の秋はあの夏と同じくらい、いや、それ以上に楽しいことになりそうだ──
とまどう紅莉栖と、彼女をいたわるまゆりを眺めながら、俺はふと、そんな事を思った。