遊離喪失のトライアングル


 秋葉原の裏通り、ブラウン管工房の前。二階の窓を見上げると電気が付いているのが見えた。  それに気づいたまゆりはラボに続く階段を意気揚々と上る。きっと彼が先にラボに来ているんだろう。 「トゥットゥルー♪ オカリン、今日はずいぶん早いね!!」 「へっ?」  ドアを開くと同時に、明るく声を張り上げてラボの中に呼びかける。だが、帰ってきた返事はまゆりが聞き慣れたねぎらいの声ではなく、驚きのあまり半ば裏返った若い女のものだった。 「牧瀬……さん」  牧瀬紅莉栖。数日前に岡部が連れてきた、ラボメンナンバー004の女の人。 「ああ、椎名さんか。岡部なら、さっき遅れるって連絡があったわよ」 「うん……」  長い足を組んでソファーに腰掛け、科学雑誌をめくる紅莉栖の姿は岡部と同じくらい、いやそれ以上に堂に入っていた。  紅莉栖から邪心のない微笑みを向けられて、逆に居心地が悪くなる。まるで自分こそが余所者であるかのような気分を振り払おうと、まゆりは手に提げていたコンビニの袋から、から揚げを取り出して開発室に向かった。 「ジューシーから揚げナンバ〜ワン〜♪」  まゆりの歌声も、静まりかえったラボの中ではどこか虚しく響く。  開発室に置かれた電子レンジにから揚げを入れて時間をセットする。タイマーの秒数が減っていくのを眺めながら、まゆりは岡部が突然に電話レンジ(仮)を捨ててしまおうと言いだしたときのことを思い出す。あれはコミマを過ぎて少しした頃だったろうか、あのときは本当にびっくりしたし悲しかった。ダルが新しい電子レンジを見つけてくれるまでの数日間の事を思い出すとそれだけでお腹が鳴ってしまいそうになる。  そうこうしているうちに、軽やかな電子音と共に電子レンジのターンテーブルが回転を止めた。 「でっきあっがり〜」  「うーん……」  熱々のから揚げをレンジから取り出したまゆりは、紅莉栖の呟きに気づいた。 「何か足りない気がする……」  ぼんやりとした表情で電子レンジを見つめる紅莉栖の様子に、まゆりはなんだか怖いものを感じてしまう。 「牧瀬さん、牧瀬さん!!」 「あ……」  気を取り直した紅莉栖がまゆりの顔を見つめる。だが、その瞳は目の前にいる自分ではなく、それを通して何か別のものを見ているように感じられた。そして、まゆりは紅莉栖のそんな態度に接するのはこれが初めてではない。  何かを見透かすようなその瞳を前にすると、自分の中を覗かれているようで怖くなる。 「牧瀬さん、どうしました? 大丈夫?」  胸の中にうずまく気持ちを押し殺し、まゆりは紅莉栖を気づかった。声を掛けるとその瞳の焦点が次第にまゆりを捉え始める。 「うん、大丈夫。ちょっとぼうっとしちゃって」  感謝の言葉を述べながら微笑む紅莉栖。その姿に、先程までのどこかおかしな様子はわずかにも残っていない。 「あ、そうだー。 牧瀬さん、から揚げいりませんか?」 「ありがと。三つくらいくれるかしら」  パックから皿にから揚げを移し、楊枝がないので割り箸を添えて紅莉栖に渡す。まゆりから渡された皿を見つめ、困り果てた表情をする紅莉栖。  喜々として自分の分のから揚げを平らげ始めたまゆりへためらいがちに紅莉栖が話しかけようとした瞬間、ラボのドアが乱暴に開かれた。 二人がそちらに目をやれば、白衣を着た長身の男、このラボの主である岡部の姿がある。 「まゆり、もう来てたのか」 「オカリンだー!! トゥットゥルー♪ まゆしぃは今日は学校が早く終わったのです」 「お、助手よ、どうした? なにを固まってる?」 「うるさいわね。ダメなのよ、私」 「もしかして牧瀬さんって鶏肉がダメだった? ごめんなさい」  「ち、違うわ。そういう事じゃなくて……ほら、アレよ、アレ」 「ほほう…… そういうことか。謎は全て解けたぞ!! この鳳凰院凶真の天才的頭脳を持ってさえすれば、クリスティーナよ、お前の悩みを見破ることなど造作もないわ!!」 「だから私は助手でもクリスティーナでもないっていままでに何回も……」  このやり取りを「覚えている」 この光景を「見たことがある」 「そんな不器用ガールにプレゼントだ。これを使うといい」 「フォーク……? え、なんでわかったの?」  数日前に会ったばかりのはずなのに、岡部と紅莉栖はまるで旧知の仲のように振る舞っていた。その光景になぜ自分は見覚えがあるのだろう。 「これをマイフォークにするといい。何を隠そうこいつは特別製でな、ここの打刻を見てみろ」  「中央通りのコンビニで付いてくる奴じゃない。何が特別よ」  そう、理由なんてわかってる。だって全ては、わたしが「覚えている」事だから。理由なんてわからないけれど、経験したことのない、知らない2010年の夏休みの光景が、自分の記憶の中にあるのは紛れもない事実だから。  ぼんやりと二人を見つめるまゆりの視線に、岡部も紅莉栖も気づかない。その手の中では、パックにのこった最後の一つのから揚げがすっかり冷めてしまっていた。              * 「オカリン!! 忘れ物だよ!!」   退院してきた岡部がふらりとラボに現れ、ラボメンバッジをまゆりとダルにプレゼントしていった日。  近所を散歩してくるとラボを出ていった岡部を追って階段を駆け下り、道路に飛び出したまゆりの声に通行人が次々に振り返る。  休日の秋葉原の裏通りを埋め尽くす人並みの向こうでは、見慣れた白衣姿の長身が角を曲がるところだった。まゆりが走って追いかけようとしたところで買い物客に肩をぶつける。舌打ちする彼に頭を下げたときには、岡部の姿は視界から消えていた。 「オカリン、どこに行くんだろ……?」  たぶん秋葉原の街からは出るつもりはないと思うけれど、それ以上は判らない。退院したばかりの身で一人で出歩くのは危ないと言ったのに、聞き入れてくれなかったことを思い出してまゆりは胸を痛めた。  携帯電話を取りだし岡部の番号に掛けてみる。だが、発信音が虚しく響き続けるだけで聞き慣れた岡部の応答は電話から帰ってこなかった。  電池が切れているのか、それとも電源を入れていないのか。なんの当てもなく秋葉原の街を探し回るよりも、財布を忘れたことに気づいた岡部が戻ってくるのをラボで待つべきなのではないだろうか。  だが、いまこの瞬間に追いかけなければ、彼がどこか手の届かない遠くに行ってしまいそうな気がまゆりにはしていた。 「オカリン……」  胸元に付けたラボメンバッジに、無意識のうちにまゆりは手をのばす。根拠なんかない。だけど、退院してラボに寄ったオカリンはどこかおかしかった。  いや、本当は重傷を負ってラジオ会館の屋上で保護され、入院しているときから薄々は気づいていた。それが決定的になったのが今日だったにすぎないのかもしれない。 「だからって、一人で何もかも抱え込まなくても良いのに」  オカリンに負担は掛けたくない。でも、悩みは出来るだけ自分と分け合っていて欲しい。ワガママなのかもしれないとは思うけれど、それがまゆりの正直な気持ちでもあった。  その時、人混みの向こうを横切ってゆく岡部が見えた。 「あ、オカリン──」  岡部がはっとしたような表情で足を止める。それと同時に、岡部とすれ違った女性が同じように立ち止まった。足早に行き交う秋葉原の雑踏の中で、彼ら二人とそれを見つめる自分の三人だけ時間が止まってしまったかのようにまゆりは感じる。 「やっと会えた」  ざわめきの中で、女性のすがるような声だけがなぜかはっきりと聞こえた。  「あなたを、ずっと捜していました。あのとき、助けてくれたあなたを、ずっと──」  年の頃は自分より少し上、岡部と同じくらいだろうか。立ちすくむまゆりの前で、整った横顔をいまにも泣き出しそうに歪めて彼女は岡部に向かって語りかける。 「私、一言、お礼が言いたくて。どうしても、あなたに会いたくて」  胸の前で手を組み、言葉を絞り出す彼女と、それをじっと見つめる岡部。あわただしく流れていく秋葉原の人並みも、不思議と二人を避けていく。 「本当に、ありがとう。……あなたが、無事でよかった」  心からの感謝を込めて彼女が告げる。その一言が過ぎ去ったあとに、二人は無言で見つめ合う。 「俺だ。なぜ彼女がここにいる? 俺の"リーディング・シュタイナー"は反応しなかったというのに──なに!? 俺が守れだと!?」  岡部がポケットから取り出した携帯電話に向かってまくし立てる。まゆりにとっては見慣れたその仕草も、この場で見るとなぜか胸が少し痛んだ。  しばらく喋り続けた岡部が携帯電話をしまい咳払いをする。その間もずっと、見知らぬ女性は岡部のことをすがるような目で見つめていた。そんな彼女に向かって岡部が優しく微笑みかける。 「また会えたな、クリスティーナ──」 「いや、だから私はクリスティーナでも助手でもないって言ってるだろう──」  「……っ!?」  その言葉に岡部が息を呑む。その一方で彼女も、自分の言葉が信じられないかのような表情をしていた。雑踏の中、さきほどまでとは一転して間の抜けた様子で二人は見つめ合う。 「これ、知ってる……?」  まゆりがぽつりと漏らした言葉は、二人には届かない。    "フゥーハハハ、クリスティーナよ、お前は実に──"  "岡部、あんたねぇ……"  岡部とあの女の人が話しているのを見るのはこれが初めてのはずだ。なのに、見たことも聞いたことのないはずの二人の「会話」がまゆりの脳裏に次々とよみがえる。    "まゆり、ほら──"  "紅莉栖ちゃん、あのね──"   ラボで優しく自分に微笑みかけてくれる彼女と、知らない名前で彼女のことを呼ぶ自分。こんなの現実にあったはずがない。だって、今年の夏休みのラボは、あの女の人なんて居なかったのだから。  理性が記憶を否定する。だけど、感情がそれをさらに上書きする。   見たことのない光景が、聞いたことのない会話が、知らないはずの単語が次々に頭の中を駆け巡り、まゆりはなにも考えられなくなる。 「ようこそ、我が助手、牧瀬紅莉栖……いや、クリスティーナ」  感極まり、泣き出しそうになりながら岡部がラボメンバッジを紅莉栖の手に握らせる。 「これが、シュタインズゲートの選択だよ」  目の前で戸惑う紅莉栖を慈しむようなその姿に、まゆりは岡部に掛けようとしていた声を飲み込み視線を足元に落とした。  わかってしまった。ここには、自分の居場所はないんだって。オカリンの瞳の先には、あの綺麗な女の人しかいないんだって。    オカリンが彼女に何か話しかけているのが聞こえる。もう、これ以上二人の会話を聞いていたくなかった。 「……っ!!」  きびすを返し、もと来た道へ駆けだす。どこをどう通ったのか、気がつけばラボの前にまた戻ってきていた。 「あ、財布……」  ポケットの中には、届けるはずだった岡部の財布が入ったままだ。何気ないその手触りが、いまはとても重かった。 「まゆりちゃん、まゆりちゃん!!」   ソファーのとなりから掛けられた声で、まゆりの意識は目前の光景に引き戻される。 「どうしたの? 何だかぼうっとしてたみたいだけど……」 「ううん。ちょっと昔のことを思い出してただけ。大丈夫だよ、るか君」 「そう……」  るかが何か言いたそうにしたあとで、膝の上で広げているコスプレ専門誌へ視線を落とした。狭いソファーを二人で分け合っているので、気まずそうに彼が身じろぎするのがまゆりにはよくわかった。  「なんだと? この俺の素晴らしいアイディアが受け入れられないというのか? 助手よ」 「岡部のはアイディアじゃなくてただの妄想。いい? こういう場合は、配線はこっちにバイパスした方が効率的」 「そんな手があったとは。さすがは助手、俺が見込んだだけのことはあるな」 「あんたねえ……」  開発室では岡部と紅莉栖が次の未来ガジェットの設計案について議論を続けている。 二人の横では、ダルがスナック菓子をつまみながらパソコンの画面に貼り付いていた。その肩越しに見える画面には次々に可愛らしい二次元の女の子達が映し出されている。きっと画像スレまとめサイトでも見ているのだろう。  いつものラボの風景……これを、なぜかそう思えてしまう自分がいる。紅莉栖が岡部に連れられラボに現れたのはつい最近のことで、こうして五人で過ごすラボの風景はまゆりには馴染みのないもののはずだった。  膝の上のコスプレ専門誌に目を落とせば、可愛らしく、凛々しく、愛らしく、それぞれに工夫を凝らした衣装に身を包んだ男女の姿がページをめくってもめくっても続いている。 夏休みの前、急に刺されて岡部が入院してしまうまえならこうやって雑誌を見るだけで新しい衣装作りのインスピレーションがいくらでも湧いてきていた。なのに、いまは岡部と紅莉栖のことが気になってなにも頭に入らない。 「はあ……」  ぼうっとしたまま、ため息をつくまゆりの横顔をるかが心配そうに見つめる。 「ねえ、るか君も……あの人、牧瀬さんに見覚えがあったりする?」  「見覚え? なんのこと? そりゃあ、牧瀬さんは最近よくラボに来てるけど」  「ううん、わからないなら、いいの」  あの時よみがえってきた知らない夏休みの思い出。ほとんどは紅莉栖と岡部の記憶だったけれど、中にはるかに関するものもあった。おぼろげな記憶の中で、まゆりは確かに紅莉栖と、るかと共にこのラボにいた。  無意識のうちに襟元のラボメンバッジをいじり回していたことに気付き、まゆりはその手を下ろす。部屋の向こうで議論する岡部と紅莉栖の襟元にも、隣のるかの胸にも、そして最初は嫌がっていたダルの帽子にもそれぞれのラボメンバッジが光っていた。   「あれ、もうこんな時間? 夕飯食べるの忘れてた……」  概念図をまとめ終わった紅莉栖が伸びをすると同時に時計に目をやり、驚いた声を上げる。 「はやくホテルに帰らないとレストランが閉まっちゃう」 「そこでデリバリーのピザの出番だお」 「んなわけあるか!!」  紅莉栖の反射的なツッコミに皆の笑いが重なる。そのただ中で、少し顔を赤くらめて身じろぎする紅莉栖。 「……ええと、じゃあ、私はそろそろ帰るから」  「さらばだクリスティーナよ!!」 「牧瀬氏、乙〜」 「牧瀬さん、お疲れさまでした」 「……じゃあね〜」  荷物をまとめた紅莉栖がラボから出ていく。一瞬言葉につまったあと、まゆりは手を振って紅莉栖を見送る。様子に気づいたるかのいぶかしげな視線に、まゆりはあいまいな微笑みを返した。 「オカリン、まゆしぃ達もそろそろ帰ろうよ」 「おお、そうだな。ダルよ、後は任せたぞ!!」   開発室のパソコンでゲームに熱中するダルへ岡部が声をかける。無言で手をあげ、OKのサインを出したダルを尻目に岡部とまゆり、そしてるかはラボをあとにした。  神社へ向かうるかと別れ、まゆりと岡部は闇に包まれた秋葉原で二人きりになる。パーツショップや萌えショップが閉店する時間を過ぎた裏通りは人通りもまばらで、まるで二人だけ取り残されたようだった。 「まゆり、何か食べていくか? 中央通りの松屋ならまだ開いてるはずだが」   「ううん、さっきラボですこし食べたから、今日はもういいの」 「なんと!! まゆりが食事をあきらめるとは。珍しいな」 「酷いよー まゆしぃだって、きちんと考えてるんだよ。ダイエットとか」  涼しさを含んだ秋の夜風が二人に吹き付ける。まゆりの帽子が飛ばされそうになるのを、すんでの所で岡部が抑えた。  風で乱れた髪を手櫛で直しながら、まゆりが岡部を見上げて微笑む。 「オカリン、ありがとー」 「全くまゆりは…… いつまでも俺に世話してもらうつもりだ?」 「そんな事ないよー まゆしぃだって、きちんと大人の階段を上っているのです」 「大人の階段ねえ……」  そこで言葉を切った岡部の視線が自分の胸元に向いているのに気付き、まゆりはわずかに頬を赤くした。口に出さなくても、岡部が「大人」という単語から何を想像しているかはなんとなくわかった。 「そういえばね、オカリン。まゆしぃは今週末からメイクイーンのバイトに復帰するんだよ。フェリスちゃんに早く戻ってきてって言われちゃった」  恥ずかしさを振り切ろうと、まゆりは別の話題を持ち出した。岡部が入院しているあいだは看病のためにバイトを休んでいたのでおよそ一ヶ月ぶりの出勤になる。 「お帰りニャさいませ。ご主人様♪ だよー」  ひらりと岡部の前に進み出たまゆりが、両手を猫の形に丸めて顔の前に挙げるメイクイーン式の挨拶をする。メイド服がなくとも、ウィッグがなくとも、そこに居るのは確かにメイドのマユシィ・ニャンニャンだった。 「まゆりのそれを見るのも久しぶりだな」 「オカリン違うよ、まゆしぃじゃないよ。マユシィだよー」 「どこが違うというのだ……」  呆れたように笑いだす岡部に釣られ、まゆりも微笑む。ひとしきり笑い合ったあと、まゆりはポーズを解いて元通り岡部の隣に戻った。 「そういや、紅莉栖がメイドカフェに行ってみたいとか話してたな。まゆり、連れて行ってもいいか?」 「えっ…… ああ、うん、もちろんだよー フェリスちゃんもきっと喜ぶと思うのです」  一瞬口ごもったあと、少しだけうつむいて応じたまゆりの変化に岡部は気づかず続ける。 「そうか。なら、今度の日曜にでも久しぶりにメイクイーンに顔を出してみるとするかな」 「まゆしぃが復帰するのはちょうどその日なのです」 「頼むぞまゆり。クリスティーナに本物のメイドを見せてやれ」 「フェリスちゃんに言っておくね。特別サービスしてあげてって」  総武本線のガード下、中央通りにかかる横断歩道を二人は渡る。広々とした道路もこの時間だとほとんど車は走っていない。  横断歩道のなかばで、末広町の方向を見つめて岡部がふと立ち止まる。どこか遠く、思い出の中の風景と現実を重ねているような眼。紅莉栖が時折自分に向けるのと同じような視線。 「オカリン、どうしたの? はやくしないと信号が変わっちゃうよ?」 「ああ……」  自分の存在が忘れられたように思え、恐ろしくなったまゆりが声を掛ける。聞き慣れたぶっきらぼうな岡部の返答に、まゆりは気づかれぬよう胸をなで下ろした。  改札を抜け、山手線のホームに上る。エスカレーターを上がりきると線路の向こうに立つ看板がまゆりの目に入った。 「モンハンの新作、発売日決まったんだ!! オカリンもそろそろ買おうよ。まゆしぃと一緒にやろうよー」 「俺には未来ガジェットの発明という、携帯ゲームよりも重視しなければならない使命があるからな…… すまん、まゆり」 「えぇー 楽しいのに。まゆしぃはオカリンとパーティーが組めなくてさみしぃのです」 「そう言うな。まゆりが遊ぶのを一緒に見てやるくらいなら何とかなるからな。それで良いだろう?」 「うーん……」  不満げなまゆりをなだめる岡部。納得が行かないのか、名残惜しそうにまゆりは歩きながら看板を眺め続けている。 「そうだな、モンハンのようなアクションではなく、もっとこう、俺の頭脳にふさわしいようなものであれば、協力プレイをするのもやぶさかではないぞ」  「食わず嫌いはだめだよ、オカリン……きゃっ!!」  看板に気を取られていたまゆりが通りすがりの大柄な男にぶつかり姿勢を崩す。はじき飛ばされ、よろけてホームの端へ近寄っていくまゆり。 「まゆりっ!!」  大声を出した岡部が即座に手を伸ばし、まゆりの腕を取る。そのまま引き寄せ、勢い余ってまゆりを胸の中に抱き留めるような格好になる。 「大丈夫か、まゆり? 怪我はないか?」 「うん、平気だよ……」  岡部の大声に驚き、二人の方に目をやった周りの乗客達がまた元通り歩き出す。  確かに線路の方に近づいていたけれど、ホームから落ちそうになったわけではない。それに、電車が近づいているわけでもない今ならたとえ落ちたとしても自分の運動神経ならたぶんすぐに上がってこれると思う。   心配してくれるのは嬉しいけれど、そこまで慌てることだろうか。まゆりは内心で首をひねる。 「気を付けて歩けよ。ほら、そんな線路に近づくなって」  二人がいつも乗り込む乗車口まではまだ少し距離があった。線路側に近づいたまゆりの手をとり、岡部は自分の近くへ引き寄せる。 「あっ……」  驚きに声を上げるまゆりを意に介さず、岡部は手を繋いだまま歩いてゆく。いつもの乗車口にたどり着くと、繋いだままだった右手をあっさりと離されたまゆりが何か言いたげに岡部の顔を見上げた。 「どうした? まゆりよ」 「……ううん、なんでもないよ」  何だか後ろめたくなって反射的にまゆりは目をそらしてしまう。岡部の視線をしばらく感じていたけれど、やってきた電車が全てをうやむやにしてしまった。  車内で携帯ゲーム機を取り出すまゆりの傍らでは、岡部が無言で窓の外を眺めていた。  さっきの横断歩道を渡っているときと同じ。何かを思い出しているような遠い視線。放っておけば自分のそばから居なくなってしまいそうな彼の姿に、ゲームを中断して何度も顔を上げつつも、まゆりはどうしても声をかけられなかった。                * 「「お帰りニャさいませ。ご主人様♪」」  入店した客を迎える挨拶の声がバックヤードにまで響いてくる。日曜の昼間ということで、メイクイーンの中は普段よりも多くの客でごった返していた。 「マユシィ、これおねがい!!」 「は〜い」  キッチンの同僚から渡されたパフェを盆に載せ、まゆりはホールに出る。テーブルの間をぬう足並みに合わせて揺れる金髪のポニーテールを何人かの客が目で追った。  新しく入店した客をテーブルまで案内して戻ってくるフェイリスとすれ違いざまにアイコンタクトを交わして微笑み合う。岡部の看病でおよそ一ヶ月近くバイトを休んでいたからか、多少あやうい所もありながらもそつなくまゆりは仕事をこなしてゆく。 「さすがマユシィ、ブランクを全く感じさせない動きニャ。やはりこのフェイリスが見込んだだけのことはあるニャ」 「そんな事ないよー フェイリスちゃん、迷惑かけて無い?」  パフェを届け終え、次の料理を運ぶためにバックヤードへ戻ったまゆりを先に戻っていたフェイリスが迎えた。  現役の女子高生ながらもたくさんの仕事を抱え、それでも自らメイドとして店に出ることを欠かさないフェイリスの方がよほど凄いとまゆりは思う。彼女に比べれば自分など、ただのアルバイトの高校生にすぎない。 「新しいお客さんニャ。マユシィ、出られるかニャ?」 「了解だよー」  ドアベルの音に誰よりも早く反応したフェイリスに声をかけられ、まゆりは店の入口に向かう。 「お帰りニャさいませ。ご主人様♪」  いつもの挨拶と、いつものポーズ。両手を顔の両脇で丸め、軽く背をかがめて微笑みかけるまゆりに二人組の男が相好を崩す。 「それでは、お席にご案内しますニャン。新規のご主人様二名様、ご案内ニャ〜ン♪」  二人組ならカウンター席の端のあの辺りがいいだろうか。店内を素早く見回したまゆりは案内する先に当たりを付け、二人に背を向けて歩き出す。 「それでは、こちらのお席になりますニャン♪ ……あの、何か?」  「いや……」  カウンター席のそばまで歩いたまゆりが振り返れば、拍子抜けしたような表情で店の入口に立ち尽くしたままの二人が居た。こちらを見ながら何か小声で話しているけれど、悪いことでもしただろうか。 「ご主人様……?」 「いやいやごめんね、マユシィちゃん。ここの席だよね?」 「はい、そうですニャン♪」  二人組の片割れが馴れ馴れしく声をかけてくる。何となく見覚えがある気がする彼はきっと店の常連なんだろう。  常連の顔と名前、プロフィールを完璧に記憶しているフェイリスならここでうまい返しができるのかもしれないが、まゆりにはそこまでのスキルはなかった。 「マユシィ、訊こうと思って迷ってたんだけど……手を繋いで案内するの、やめちゃったの?」  キッチンへオーダーを伝え終わり、ホールに戻ろうとしたまゆりを同僚のメイドが捕まえて小声で訊ねた。 「さっきのお客さん、手を繋いでくれなかったからがっかりしてたんじゃない?」  「あぁー そうかもー」  オカリンの看病のために長期の休みをもらう前は確かにそんな事をしていた覚えがある。同僚のメイドに尋ねられるまで、まゆりはそのことをほとんど忘れていた。 「そうかも、って…… それがあなたの売りじゃなかったっけ?」 「そんなこともあったねぇー」  忘れていたと言うより、思い出さないようにしていたと言う方が正しいのかもしれない。同僚メイドの質問をはぐらかしながら、まゆりはふとそんな事を思う。  「いまのマユシィには心に決めた大切な人が居るから、誰でも構わず手を繋いだりしないのニャ。ね、マユシィ?」  どこからともなく現れたフェイリスが会話に割り込む。 「ひどいよフェリスちゃん。まるで前のまゆしぃが、男の人なら誰でも良かったみたいじゃない」 「あら?「いま心に決めた人がいる」というのは否定しないのニャ?」  フェイリスがいたずらっぽい笑みを浮かべながらまゆりの顔を覗き込む。 「えっと、フェリスちゃん、なに言ってるのかなー? マユシィにはよくわからないのです」 「ふふ、そんなこと言ってられるのもいつまでなのかニャ……? それはそうと、手を繋ぐのはあくまでマユシィ・ニャンニャンが独自の判断で行っていたサービスなのニャ。お店としてはなにも関知しないし、やるもやめるもマユシィ次第ニャ」 「そうね。うちの店はそういうのを売りにしてる店じゃないし、無いならないで問題ないわね」  フェイリスの言葉に同僚のメイドもうなずく。  二人の言葉に曖昧な笑みを返しながら、まゆりは昔どうして平然とあんな事ができたのかと不思議になる。手を繋ぐと言えば、数日前の秋葉原駅のホームで岡部に引き寄せらたときのことをつい思い浮かべてしまう。 「ほら、マユシィ。ぼうっとしてないで。また新しいご主人様が来てるニャ」 「大丈夫だよフェリスちゃん。でも、どこに……?」  二階にある店への階段を上る足音で客に気づいたのか、ドアベルすら鳴る前にフェイリスが玄関へ向かう。半信半疑のまゆりが追いつくと、フェイリスの言葉通りすぐにドアが開いた。 「「お帰りニャさいませ。ご主人様♪」」 「ひゃっ!?」  現れたのは紅莉栖を連れた岡部だった。フェイリスとまゆり、二人の挨拶を受け流す岡部の横で、紅莉栖が戸惑いながら周囲を見回す。。 「こ、これがメイドカフェなのね。生で見るのは初めて……」 「助手よ、この程度のことに驚いていてはこの秋葉原で生き抜いていくことはできんぞ!!」 「いやいやいや、そんなことないから。……あれ?」  落ち着きを取り戻した紅莉栖が、まゆり……マユシィ・ニャンニャンを見つめて首をひねる。金髪ロングヘアのウィッグと、普段の服装と雰囲気の違う華やかなメイド服に惑わされたのか、紅莉栖には目の前の少女がまゆりだとは確信が持てないようだった。 「あなた、どこかで会わなかった?」 「えへへ、マユシィ・ニャンニャンは、まゆしぃなのですニャン」  まゆりの答えに紅莉栖が呆気にとられ、岡部が苦笑いをし、フェイリスが無邪気に笑う。  「さ、ご主人様とお嬢様、お席へご案内しますニャ」  フェイリスに連れられて二人は席に向かう。歩いているあいだにも紅莉栖からちらちらと視線を向けられ、まゆりは落ち着かない思いをしながら他の客への対応をこなした。 「マユシィ、三番テーブルのオーダー入ったニャ。アイスコーヒーと紅茶をお願いニャン」 「了解ニャンニャン♪」  バックヤードに戻り、手早く飲み物を作ってトレーの上へ。よどみなく、ほとんど無意識のうちにまゆりは動作を進めていく。だからだろうか、他のメイドもいるのにどうして自分をわざわざフェイリスが指名したのか、件のテーブルに行くまでわからなかった。 「紅茶とアイスコーヒーをお持ちしましたニャン」   椅子にふんぞり返る岡部と、その向かいで興味深げに店内を眺め回していた紅莉栖がまゆりの声に振り返る。 「おう、まゆりか」 「オカリン、牧瀬さん、メイクイーンへようこそニャン」  「そうか、やっぱり貴女…… ウィッグのせいで一瞬誰だかわからなかった。これ、キュートな服ね」   「なんだクリスティーナよ、お前もこういう格好をしてみたいのか?」  「違う!! でも、本当に素敵ね。すごく似合ってる」 「……えへへ、ありがとうなのです」   頭の先から靴まで、紅莉栖に全身を見つめられる。憧れをいくぶんか含んだように思えるその視線は、ラボでのすました紅莉栖ばかり見てきたまゆりにとっては新鮮だった。もしかして、口ではあんな事を言っているけれど紅莉栖もメイド服に興味があるのだろうか。まゆりの脳裏で、スレンダーな身体を華やかなメイド服に包んだ紅莉栖の姿が広がる。 「ちなみにダルはここの常連……なのはもう知ってるか。あいつのお気に入りはあそこのピンクの髪のメイドでな」  「しょっちゅう言ってた『フェイリスたん』ってあの娘のことだったのね」 「ダルくんはフェリスちゃんの大ファンなのですニャン」  カウンターの中で他のメイドに指示を飛ばすフェイリスを見ながら紅莉栖が呟く。その視線に気づいたのか、三人のいる方を向いてウィンクを飛ばすフェイリス。 「フェイリスはこの店のオーナーで、現役の女子高生でもある」 「なにその厨二設定。ラノベでやれ」  岡部の説明をテーブルにほおづえをつきながら聞く紅莉栖が、ぽつりとひとり言を漏らす。 「えっ?」 「……フッ」  反射的に出た言葉だったのだろうか、普段と印象の違う口調にまゆりは驚く。にやつく岡部に見つめられ、紅莉栖の顔に次第に赤みが差した。 「と、とにかく。私はコスプレなんかしないからな!!」 「メイクイーンの衣装はコスプレとは違うのです。制服なのニャン♪」 「だ、そうだ。コスプレ大好き娘よ、そろそろ腹を決めたらどうだ?」 「誰がコスプレ大好きよ!!」  岡部といつも難しい話をしているから、怖い人だと思っていたのかもしれない。だけど、いまの紅莉栖はそんなラボでの印象とは少し違っていた。本人はきっと認めないだろうけど、初めてのメイドカフェではしゃいでいる紅莉栖の姿はとても微笑ましく、可愛らしくまゆりには思えた。 「それじゃ、オカリン、牧瀬さん、ごゆっくりニャン」 「ああ、了解だ」 「ありがとね」 いくら知り合いとはいえ、一つのテーブルにあまり長く居座っては他の客への対応がおろそかになってしまう。会話が一段落したところを見計らって、まゆりは二人の座るテーブルを離れた。 「にしても、馬子にも衣装と言うだろう? 試しにやってみればいいものを……」 「岡部、しつこい!! それに、「馬子にも衣装」って、どうせ私は椎名さんみたいに可愛くないですよ……」  他のテーブルの客へ応対するまゆりの耳に岡部と紅莉栖の声がかすかに届く。気にならないと言えば嘘になるけれど、だからといって岡部達ばかり接客するわけにもいかない。 「どうしたの? 疲れたのなら休んだ方がいいよ」 「復帰初日だし、なんなら早めに上がってもいいニャ。マユシィ、どうするニャ?」  だからだろうか、どうでもいいミスが多くなったまゆりは同僚たちに気づかわれる。 「ううん、大丈夫。マユシィはまだまだ元気なのですニャン♪」  笑顔で応えたまゆりがホールに出る際に、一瞬だけ岡部と紅莉栖の座るテーブルに視線を飛ばし、あらためて自分が向かうべき客の方を見る。  その様子を、フェイリスが静かに見つめていた。              *  「はあ〜 歌いすぎてまゆしぃは喉が痛くなっちゃったのです」 「フェイリスもニャ……」  休日の昼下がり、秋葉原駅東口のカラオケボックスから出てきた二人を雑踏のざわめきが包んだ。 「フェリスちゃん、どこかで休んでこうよ」 「賛成ニャ!! 末広町のあの店なんてどうニャ?」 「ちょっと遠いけど、あそこなら落ち着けるねえ。いいよー」  フェイリスが挙げたカフェに向かい二人は歩き出す。ダルはオフ会、岡部はどこかに出かけ、るかは神社の用事、紅莉栖はもともとラボに来る予定なし。自分以外の誰もラボに顔を出さずメイクイーンも臨時休業の今日を、まゆりはフェイリスと二人で過ごしていた。  さすがにメイド服こそ着ていないが、フェイリスは猫耳を付けたままだ。だが、そんな彼女の出で立ちも秋葉原では特別に周りの注意をひくものでもない。 「へぇー フェリスちゃんの学校って、まゆしぃ達のと全然違うんだね。すごいなあ……」 「まゆしぃの所だって別に悪いところじゃ無いと思うのニャ。それに、フェイリスは最近は全然学校に行けてないから、まゆしぃがちょっと羨ましいのニャ」  店頭で流れる新作アニメのデモ映像に足を止め、ショーケースに陳列されたフィギュアに感心し、足を伸ばしてコスプレショップの新作アイテムを冷やかす。おしゃべりに花を咲かせ、寄り道しながらまゆりとフェイリスは中央通りを歩いてゆく。  お互いの学校生活の話から流行のアニメやゲームの感想まで、二人の話は尽きることがない。  「あれって、もしかして倫太郎じゃないかニャ?」   秋葉原駅から末広町までの道のりのちょうど中程まで来たところでフェイリスが声を上げた。  その視線をたどれば、たしかに見慣れた背中が遠くに見え隠れしていた。どんなに人混みにまぎれようがお馴染みの白衣は見間違えようがない。 「オカリン、秋葉原に来てたんだ。言ってくれたら一緒に遊べたのに」 「あれ、倫太郎の隣にいるのって、このまえ店に連れてきたあの人かニャ?」 「隣? 誰かオカリンと一緒なの?」  岡部の白衣と長身ばかりに目を取られ、まゆりはその隣を歩く人物には全く注意していなかった。人混みから抜け出ようと背伸びをしたまゆりの目に、岡部の隣で揺れる栗色のロングヘアが目に入った。 「牧瀬さんだ……」  どこかに出かけた岡部。用事があるのでラボには来る予定がないと言っていた紅莉栖。無関係だと思っていたこの二つがまゆりの脳裏でつながる。あまりにも明白なことなのに、これまでそこに考えが至らなかったのが不思議でならない。   主に男性でごった返す休日の秋葉原は背の低いまゆりとフェイリスにとってはある種の鬼門だ。この街に慣れた今でも、特に人通りの多いところは歩き辛いものがある。    紅莉栖もそうなのか、ときおり歩行者に遮られ岡部とはぐれそうになっている。そんな彼女を気づかって、さりげなく岡部が紅莉栖の手を取った。  戸惑ったように何か言う紅莉栖と、それを受け流して手を繋いだまま歩き続ける岡部の姿がまゆりの瞳に映る。  人混みが途切れはぐれる心配がほとんど無くなっても、繋いだ二人の手は離れなかった。 「マユシィ、恋は戦争ニャ。うかうかしてると、あとからやってきた泥棒猫に盗られちゃうニャ」 「盗られるって……」  傍から見てもショックを受けているのがわかるくらいだったのだろうか。岡部と紅莉栖から目を離せないまゆりに、声を潜めてフェイリスが告げる。冗談ぶっているのかそれとも真剣な忠告なのか、まゆりにはその表情は読めない。 「フェイリスはマユシィを応援するニャ」 「応援って、そんな…… まゆしぃとオカリンは、ただの幼馴染みなのです」 「ふふ…… まゆしぃ、無理はいけないのニャ。もっと素直にならないと」  無理。自分は無理をしているのだろうか。胸の内に問いかけてみても、まゆりはどうしたらいいのかわからない。 「後悔だけはしないように。それが、フェイリスからのたった一つのアドバイスニャ」  後悔しないように。まゆりには、その言葉が妙に印象に残った。  夕闇が落ち始めた秋葉原の街の変わらない雑踏をまゆりは歩く。あのあとフェイリスと二人でお茶してはみたもののいまいち盛り上がらず、彼女と別れたまゆりは秋葉原駅へと家路を辿っていた。  末広町ですぐに地下鉄に乗っても良かったけれど、何だか今は少し歩きたい気分だった。 声高に話しながら通り過ぎていく買い物客達へ可愛らしい声でメイドがチラシを渡す。新作ゲームのデモが流れるモニターからは、流行の声優の歌声が響く。ホビーショップの店頭には雷ネットABの大会の日程が張り出されていた。  こうじゃない秋葉原を、知ってる。  唐突に、メイクイーンも萌えショップも存在しない秋葉原の光景が記憶に差し込まれる。そこでは、フェイリスは今と同じようにまゆりの友人で、雷ネットABに君臨するチャンピオンだった。 「なんなの、これ……?」  夢のようにおぼろげな思い出。だが、思い出そうとすればするほどはっきりしなくなっていくのが夢なら、こちらは逆だった。  岡部と紅莉栖の再会を目撃したときと同じ。こんどのきっかけになったのは、先ほどの少し様子の違うフェイリスか、それとも雷ネットABだろうか。  思い悩む暇すらなく、フラッシュバックする記憶のせいでまゆりの意識が遠くなる。ふらつく身体を休めようにも秋葉原の裏通りにそんなスペースはない。足を止めたまゆりを通行人達が迷惑そうに避けて通り過ぎる。 「……っ!!」  耐えきれなくなり地面へしゃがみ込む。そんなまゆりに対しても周りの人混みは無関心だった。日常の雑音にすぎない呼び込みの声や流れる音楽が耐え難いくらい頭に響く。  こんな時、オカリンならきっと助けに来てくれるはずだ。  おばあちゃんが亡くなったあのときだって、彼は自分を救ってくれた。よみがえった知らない夏休みの記憶の中でも、自分が何度も危険にさらされるたびに必死になって駆けつけてくれた。    細かいところはぼんやりとしか思い出せないけれど、泣きそうになりながら何度も自分の名前を呼び続ける彼の姿のイメージがよみがえる。    でも、いまは、来てくれるんだろうか。   ふと脳裏に浮かんだ疑問。最初は小さかったそれがまゆりの心を次第に塗りつぶしていく。  紅莉栖という存在がいる今のオカリンには、自分はただの重荷なのかもしれない。そんな事はないはずだと必死で自分に言い聞かせても、さっき見た手を繋ぐ岡部と紅莉栖の姿がまぶたから離れない。  心を埋め尽くす真っ黒な感情と共に、まゆりの意識は闇へ落ちていく。 「まゆり……ちゃん?」  おどおどした女性の声が、気づかうように掛けられる。まゆりが気を失うのと、彼女が肩を支えるのは同時だった。 「……起きた?」  目を覚ましたまゆりの視界を壁際に天井まで積み重ねられたブラウン管が埋めた。ガラス戸で雑踏から遮られた室内には、埃の匂いと静寂が漂っている。 「具合……悪そうに……してたから。お店まで……連れてきた」  周りを見回し、まゆりはようやくここがブラウン管工房の中だと理解する。タオルを引いた椅子の上に座らせられたまゆりの前には、眼鏡を掛けた女性が立っていた。  桐生萌郁。夏休みの終わり頃からブラウン管工房で働き出したアルバイトの女性だ。ラボへの行き来の途中で、何度か挨拶をしたことをまゆりは思い出した。 「桐生さん、ありがとうございます」  礼を言うまゆりの言葉に萌郁は微かにうなずいた。 「汗……かいてるから。これで……拭いて……あげる」   萌郁は手元に濡らしたタオルを持っていた。おっかなびっくりした手つきで彼女はそれをまゆりの額にあてようとする。 「いやっ!!」  何気ない動作のはずだった。だが、まゆりは伸ばされた手を反射的に振り払った。  触れられた瞬間に自分の中に生まれた強烈な嫌悪感に戸惑う。その間にも彼女の近くにいてはいけないという思いはどんどん強くなってゆく。  まゆりは萌郁とほとんど話したことはなかったけれど、別に嫌っていたわけでもない。そんな感情を、知らない夏休みの記憶から来る漠然とした嫌悪感が置き換えてゆく。  戸惑う萌郁を後に残し、ふらつく身体をおしてまゆりはブラウン管工房の外に飛び出した。驚きのあまり追いかけることもできず、萌郁はその場から動けない。  わざわざ自分を介抱してくれた人間にする仕打ちでないことはわかっていた。だが、それ以上に目の前の萌郁に耐えられなかった。  飛びだしたところで行くあてがあるわけでもない。それに、急に運動をしたので目眩がまたよみがえってきていた。  助けを求めて周りを見回せば、ラボへの登り口で紅莉栖がきょとんとした表情で飛び出してきたまゆりを見つめていた。 「紅莉栖ちゃん、あの、あの……」 「落ち着いて。どうしたのよ」   目の前の紅莉栖にたまらずまゆりはすがりつく。  萌郁がブラウン管工房の店内から顔を出し、二人の方を無表情に見つめる。その視線に気づき、紅莉栖がまゆりを抱く手を強めた。 「ひとまず、ラボに行きましょう」 「……うん」  紅莉栖に肩を貸されてラボへの階段を上る。ドアを開けると、換気されていないラボの埃臭い空気が流れ出してくる。  ソファーにまゆりを座らせ、紅莉栖が窓を開ける。窓越しに部屋の中へ入ってきた秋葉原の喧噪が、またまゆりに知らない夏休みの記憶を思い出させた。 「いきなり飛び出してきてびっくりしたわよ。ブラウン管工房の中でなにかあったの?」 「ええと……」  いったい何から説明すればいいのだろう。紅莉栖と岡部が出会ったときによみがえってきた知らない夏休みの記憶。あれが全ての始まりだった。  どう話したらいいか判らず、まゆりはうつむいてソファーに座った自分の足を見つめる。 「……もしかして、思い出したの?」 「え……?」  冷蔵庫からドクペを取り出しざまの何気ない紅莉栖の言葉に、まゆりは目をしばたいた。 「知らない会話の記憶が無い? メイドカフェや、萌えショップのない秋葉原の風景を知らない?」  まくし立てる紅莉栖の姿に気圧され、まゆりは言葉をつまらせる。彼女が言っているのは、やっぱりあの知らない夏休みの記憶のことだろうか。  いったん言葉を切った紅莉栖が、周りを見回す。秋の休日の午後、傾きかけた日差しの差し込むラボの風景。なにも変わりがないはずのそこを、何かを確認するかのように彼女はじっくりと確かめる。  そんな紅莉栖の姿をぼんやりと見上げながら、まゆりは紅莉栖が何ヶ月も前からここに出入りしていたかのように感じてしまう。 「私、あなたと夏休みを、ここで一緒に過ごしたわよね?」  現実の夏休みではそんな事は無かった、互いにそれをわかりきった上での質問。  その問いにまゆりは、ゆっくりとうなずいた。 「これは、私の勘違いじゃないのよね? デジャビュなんかじゃないってこと?」  「まゆしぃも詳しいことは全然わからないのです…… でも、オカリンと話してたり、オカリンを見てたりすると思い出すの」 「ふうん……」  品定めするような紅莉栖の視線に、まゆりは何だか緊張してくる。 「そうね、まずは情報を整理しないと」  「はい?」  予想だにしなかったその言葉にあっけにとられるまゆりをよそに、紅莉栖はホワイトボードの前に立って図を描き始める。 「牧瀬さん、何を……」 「さっき、紅莉栖って呼んでくれたよね?」  振り向いた紅莉栖が、いたずらっぽく微笑んだ。  「ずっと思ってたけど、何だかその呼び方をされるとくすぐったいのよね。さっきみたいに、紅莉栖でいいわよ、まゆり」  そう言い放つ紅莉栖の自信に満ちた瞳。それはまさしく、まゆりのあの夏の記憶の中のものとうり二つだった。  「じゃあ……紅莉栖ちゃん。情報を整理ってなんのこと?」  おそるおそる口に出してみた呼びかけ。だがそれは、初めてのはずなのに何度も繰り返して呼んでいたようにまゆりの意識に馴染んだ。まるでずっと前から、紅莉栖へとそうやって呼びかけていたように思えてくる。 「私たちが「思い出した」ものについてに決まってるじゃない」 「電化レンジだか電話レンジだか、とにかくそこに置いてある電子レンジを改造した何かを作っていた、と」 「紅莉栖ちゃんが一生懸命になって改造してたのを覚えているのです。何だか難しい理論があるみたいだけど、まゆしぃにはそれ以上の事は良く思い出せないのです……」 「私も同じ。この部屋にこもって、来る日も来る日も電子レンジをいじってた。岡部が何か大発見をして、私もそれに協力してたみたい」  そんなこと実際にやっていないのにね、と付け加える紅莉栖。 「他の人に訊ねてみたことはある? 私の記憶だと橋田や漆原さんも、このラボで一緒になってるんだけど」 「うーん、きちんと訊いてみたことはないけど、るか君は何も知らないみたいだったよ」 「橋田も知ってたらもっと違う態度になるわよね……」  「あとね、ブラウン管工房でバイトしてる人が違う気がするの」 「それ、私も!! なんだかもっとスポーツマンというか、明るいというか……桐生さんみたいな人じゃなかったのは確かね」  二人で話し合いながら、思い出したことを紅莉栖がホワイトボードにまとめていく。項目だけが増え続け、ホワイトボードの余白は狭くなっていく一方だ。  それなのに核心にたどり着く手がかりは得られない。知らない夏休みの記憶の断片だけが二人のあいだに積み重なっていく。 「結局、何なのかわからないままか。岡部は何か知ってそうなんだけど……」 「まゆしぃはオカリンから、何も聞いてないのです」 「勘違い、デジャヴみたいなものだと思ってたの。岡部はたまに変な事を言って、それが身に覚えがあったりするけど、ただの偶然だって」  まゆりを見据えた紅莉栖が、力強い口調で告げる。 「私とまゆり、二人ぶんのサンプルがある以上、単なる偶然で済ませるのは逆に非科学的かも。機会を見つけて、岡部を問い詰めてみないと」 「まゆしぃには難しい事はわからないけど、なんだかそれはいけないことな気がするのです……」 「どうして!? 自分の記憶にこんなに変な事が起こっているのに、それが何か確かめようって気にならないの?」  おぼろげなイメージの中で、岡部は何度も何度も自分のことを助けてくれた。そして、同じくらい彼は紅莉栖のことを助けようとしていた。  どうして紅莉栖が、帰国を一時延期までして岡部を探していたか。秋葉原の街中で紅莉栖と再会した岡部が、どうしてあんなに嬉しそうだったか。  自分たちに起きていることの真相について岡部から聞かされれば、きっとその裏側にある岡部と紅莉栖の想いが、はっきりとわかってしまうだろうから。 「私はあきらめない。一人でも、何が起きたのかはっきりさせるから」  紅莉栖にも同じように知らない夏休みの記憶が浮かんでいるのなら、そこにはきっと岡部から想われ、救われる紅莉栖がいるはずだ。無邪気にそれを確かめられる彼女のことがまゆりにはたまらなく眩しく見える。嫉妬と羨望のない交ぜになった重苦しい感情が、まゆりの内心を満たしていく。  こんなことがなかったら、きっと自分たちは何のしがらみもなくよい友人になれたのだろう。だってそれは予測でなくて確定された過去。知らない夏休みの記憶の中の自分は、紅莉栖と仲良く過ごしていたのだから。 「少なくとも、岡部が何かのキーになってるのは確実なはず」 「紅莉栖ちゃんは……どうして、オカリンのことをそんなに気にするの?」  熱意を込めて語る紅莉栖に、まゆりはつい訊ねてしまう。口に出してから、そういえば直接そのことを訊くのは初めてだと気づく。 「どうしてって、岡部はラジオ会館で私を助けてくれた命の恩人だし。あとは……いや、うん、それだけよ、それだけ」  先程までの勢いはどこへやら、口ごもる紅莉栖。その瞳は、傍目に見てもわかるくらい恋する少女のそれだった。 「まゆしぃにとってもね、オカリンはヒーローなんだよ。オカリンが人質にしてくれたから、今のまゆしぃが居るの」  そしてきっと、彼女の姿は自分の鏡映しなんだろう。紅莉栖の様子を見ながら、まゆりは唐突に理解する。 「人質って、前から不思議だったけどなんなのそれ? なにかの暗号?」 「まゆしぃはオカリンの人質だから、そばに居ないといけないのです」  まゆりのとぼけたような返答に紅莉栖が苦笑しながら首を振る。書き込みでいっぱいになったホワイトボードを眺めた紅莉栖は、携帯電話で写真を撮ったあと勢いよく消してゆく。 「忘れ物を取りに来ただけだったのに、こんなことになるなんて思わなかったわ…… 私はちょっと大使館に用事があるからそろそろ帰るけど、まゆりは大丈夫?」 「うん。ラボで休んだからもう元気だよ。ありがとうね、紅莉栖ちゃん」 「なんなら岡部に迎えに来てもらったら? って、あいつは大学に顔を出してるんだった」  二人で秋葉原を歩いていたのに紅莉栖だけがラボにやってきたということは、そんなところだろうと思っていた。 「心配しなくても大丈夫だよ。まゆしぃは一人で帰れるのです」  自分が知らない岡部の行動を紅莉栖が知っていることを思うと胸が痛くなる。それを押し殺し、まゆりは紅莉栖に向かって微笑んだ。              * 「まゆり、ちょっと話があるんだが、いいか?」 「んー? なあに?」   静寂が支配するラボにその声は妙に響いた。コスプレ衣装を縫う手元から顔を上げ、まゆりは首をかしげて岡部を見やる。  平日の夜のラボにはまゆりと岡部の二人だけが残っていた。手招きする岡部に近寄ったまゆりは、ディスプレイに映る通販サイトの画面に気づく。目をこらせば、ジャンクフードから電化製品、PCのパーツから衣料まで、全く統一感のない商品の数々があった。 「オカリン、なに買おうとしてるの?」 「あー、まあ、そうだな。実はここだけの話なんだが、助手が今週末ついに帰国するらしくてな」 「へぇー!! そうなの!?」  まただ。また、自分は知らない紅莉栖の予定を岡部だけが知っている。胸の奥底に走る刺すような痛みを無視して、まゆりは無邪気に驚くそぶりをみせた。 「そこで助手に何かプレゼントをしようと思うのだが、いい案がさっぱり浮かばなくてな」  まゆりの様子になにも気づかないまま、岡部が顎をしゃくってディスプレイを示す。 「秋葉原で買えるもので何とかしてみようとネットで探してみたのだがな……」   言われてみればディスプレイに映っているのはどれも秋葉原所在の店のネットショップ部門だった。幅広いようで妙な偏りを感じた理由にまゆりは納得する。 「カップラーメンなんてどうだ? 紅莉栖は──が好きだっただろ?」 「オカリン、中央通りのコンビニでも買えるものはお土産にならないとまゆしぃは思うのです」  ウィンドウの一つをクリックしながら岡部が言う。そこには、紅莉栖がラボでよく食べているカップ麺を箱で販売するという文字が躍っていた。  いくらなんでもこれを日本土産にするのはどうかと思う。箱売りのカップ麺なんて、飛行機にそのまま積み込んでいいものなんだろうか。 「じゃあ、このデジカメなんてどうだ?「二十代の女性に大人気!!」だと」 「オカリン、これはお土産にしては高すぎるよー まゆしぃだったら、いきなりこんなの贈られたらびっくりしちゃうのです。」 「なら、どうすればいいと言うのだ…… くそ、いっそ服でも贈るか!?」 「落ち着いて、オカリン。相手のことをどれだけ考えてあげられるか。気持ちをどうやってこめるか。それがプレゼントには大切なことなんだよ。例えばそう、世界に一つしかないものなんてロマンチックだよねー」 「また夢見るようなことを…… まゆりもまだまだお子様だな」 「まゆしぃはお子様じゃないよ!!」  口を尖らせて抗議するまゆりを慈しむような目で眺めた岡部が、ふっと肩から力を抜く。 「まあ、なんだ。助かったぞまゆり。もう一度考え直してみるとしよう」 「オカリンは大げさだよー そんなにむずかしく考える必要はないのです」  岡部に語りかけながら、今日も変わらず胸元に付けているラボメンバッジにまゆりは手を伸ばす。世界に一つだけのもの──このラボメンバッジのようなもの。自分にとっては、このバッジはそれくらい大切な存在だ。 「……ん、まてよ。そうか!! 閃いたぞ!!」  開発室の戸棚に放置されている未来ガジェットに目を止めた岡部がはじかれたように立ち上がる。いまではもう十数台に増えた未来ガジェット達を手に取り、岡部は一つ一つ眺め回しだす。 「こいつは大きすぎる…… これは一度使ったら最後だ……」 「もしかして、未来ガジェットをお土産にするの?」 「ああ。これぞ「世界に一つしかないもの」だろう?」  振り向いた岡部がニヤリと笑う。言われてみれば、確かにその発想は無かった。  紅莉栖が来てから数台増えた未来ガジェットは、言うなれば彼女がこのラボで過ごした数週間の日々の結晶だ。考えてみればこれ以上ないくらいに土産にふさわしい。  自分のアドバイスが岡部の役に立ってまゆりは嬉しくなる。その一方で、選ばれたプレゼントが岡部と紅莉栖の二人をよりいっそう繋ぐものである未来ガジェットになってしまったのは皮肉なものだ。  襟元に付けたラボメンバッジへまたまゆりの手が伸びる。これが、「世界に一つだけのもの」であることを岡部はどれくらい意識しているのだろうか。  開発室の戸棚をひっくり返し、そこかしこにしまわれた未来ガジェットを検分する岡部の後ろに立ちながら、まゆりはそれをふと疑問に思った。    紅莉栖の送別会は当然のようにラボで開かれた。るかとまゆりが丁寧に飾り付けたラボの談話室には、ダルのたっての希望でデリバリーのピザが何種類も並ぶ。 「さすがにピザしかないってのはどうなのよ…… なんか、日本に居る気がしないんだけど」  呼び出された紅莉栖がテーブルの上を眺めて愚痴をこぼす。 「帰国後の生活のいい予行演習になるではないか、助手よ。これも俺達からの、帰国してから日本食が恋しくなったりしないようにという心遣いだ」 「単に面倒だっただけじゃないの? まあでも、こうやってパーティーを開いてくれるのには感謝してる。ありがと、岡部」 「礼を言うなら俺だけでなく、ここにいるラボメン全員に行っておくべきだなクリスティーナよ」 「それもそうね。まゆり、橋田、漆原さん、わざわざ私のためにここまでしてくれて、本当にありがとう」  集まった皆に紅莉栖が笑いかける。 「紅莉栖ちゃん、はい」 「ありがと、まゆり。ここで開けていい?」 「うん、いいよー」 「なにかしら、これ……って、ネコミミじゃない!!」 「メイクイーンで着けているのと同じなのです」 プレゼントの包装を開けて出てきたネコミミを持って固まる紅莉栖。 「牧瀬氏、一回だけでいいからそれ着けて「お帰りニャさいませ。ご主人様♪」よろしく頼むわ」 「誰がそんな事するか、このHENTAI!!」  二人のやり取りにラボが笑いに包まれる。まゆりに引き続き、るかやダルもそれぞれに選んだプレゼントを渡す。 「ではクリスティーナ……ラボメンNo.004よ。俺からも、帰国に際しての餞別だ」  岡部もいつものように横柄な口調で紅莉栖に告げる。白衣のポケットから彼が取り出したのは、妙にメカニカルな質感の竹とんぼのような物体だった。 「あ、タケコプターだ!! まゆしぃはこれ使ったことがあるのです」 「まゆりよ、タケコプターではない、タケコプカメラーだ」  まゆりの間違いを訂正する岡部を件の物体を手渡されたままの紅莉栖がもの言いたげに見つめる。その視線に気づいた岡部が、咳払いをして説明を始めた。 「このタケコプカメラーは栄えある未来ガジェット2号機だ。柄の部分にカメラが内蔵されていてな、動力なしの空中撮影が可能という優れものだぞ。やがては空撮機器の世界に革命を起こすに違いない……!!」  「どう考えてもまともな映像が撮れるとは思えないんですけど」  手の中のタケコプカメラーをためつすがめつしていた紅莉栖の呟きを岡部は平然とやり過ごす。 「まあ、改良点はいっぱいありそうだし、解析のしがいはあるか。待ってなさい岡部。これが如何にダメかを、あとでたっぷり教えてあげるから」 「アメリカに帰国してからも未来ガジェットの開発に協力してくれるとは、助手のその献身的姿勢には頭が下がるな」 「いやいやいや、そういうつもりじゃないから」  プレゼントも一段落し、笑いあうラボメン達を眺め時折そこに参加しながらまゆりはソファーで食べ過ぎた身を休めた。楽しい時間はあっという間に経っていき、気がつけば終電も過ぎてしまっている。   今晩はこのままラボに泊まろうか。ぼんやりと考えながらソファーに沈み込むまゆりを、次第に眠気が包んでいった。 「ん……」  談話室のソファーの上でまゆりが身じろぎをした。 「起きたか? まゆりよ」 「ふぁ…… おはよ、オカリン。あれ、誰もいないやー」  目をこすりながら身体を起こしたまゆりが周囲を見回して呟く。紅莉栖の送別会から一夜が明け、既にラボには岡部とまゆりの二人しか残っていなかった。  開発室の椅子に寄りかかった岡部は何をするでもなく宙を見つめている。きっと自分を気づかってラボに残ってくれたんだろう。そんな彼の姿を、ソファーのまゆりはぼんやりと眺めた。  二人きりのラボに時計の秒針の音だけが響く。昼間は窓越しに響く秋葉原の騒がしさも、街が動き出す前の今ならほとんど聞こえない。 「こうしてると、春頃に戻ったみたいだね、オカリン」 「ああ。確かにな」  まゆりの言葉に、どこか気の抜けた様子で岡部が応じた。それに構わずまゆりは続ける。  「まゆしぃはあの頃のラボも好きだけど……紅莉栖ちゃんが増えたいまのラボも嫌いじゃなかったよ」  だがそれも今日で終わり。紅莉栖がアメリカに帰ってしまえば、また元のラボの風景が戻ってくる。でも、それは見た目だけ。自分の心の中も、彼の心の中も、きっと元の通りにはもうならない。 「オカリンは、紅莉栖ちゃんのこと、どう思ってるの?」 「なっ……!! いきなり何を言い出すのだ、まゆりよ。助手は助手、単にそれだけだ」 「紅莉栖ちゃんが来るようになってから、オカリンすごく楽しそうにしてたから。ちょっと悔しいけど、まゆしぃじゃ駄目なんだよね。紅莉栖ちゃんは、このラボにとって、オカリンにとって特別な存在なんでしょ?」 「それは……」 「オカリン、答えてよ」  いまこの瞬間しか訊けない、そんな気がしていた。ここでうやむやにしてしまったらもう駄目だと。 「紅莉栖ちゃんのほうが大事?」  表情を緩め、ほほえみながら、しかし泣きそうになりながらまゆりが訊ねる。  何の答えも返ってこなくとも、無言のまま苦しそうにする岡部の表情が全てを物語っていた。 「そっか。そうだよね。うん、わかってた…… まゆしぃのこと、重荷になんだよね」 「重荷」その単語に、岡部がはっとしたように反応する。どこか遠くを見るような、記憶を探るような表情。きっと、知らない夏休みの自分が同じようなことを言っていて、それをオカリンは覚えていたんだろう。でも、だからなに? 「重荷なんかじゃない。重荷なんかじゃねえよ!!」 「でも、オカリンは紅莉栖ちゃんの方が大事なんでしょ。紅莉栖ちゃん、午前中の飛行機だよね? 行っちゃうよ? オカリン、追いかけなくていいの?」  彼の心が自分に向いてないことはわかっている。それなのに、こうして中途半端に気を遣われても辛いだけだ。 「わたしはっ!! もうっ!! 『人質』なんかじゃ……ないっ!! オカリンは、わたしなんかよりも、大事な人のところに行ってあげて」 「……すまん、まゆり」 絞り出すように告げると、岡部はラボから出ていく。慌ただしげに階段を降りる音のあと、走り去る岡部の足音が絶えたあとのラボを真の静寂が包む。  生まれたときから一緒だった。この十六年間の積み重ねに勝てるものなんて無いって思ってた。でも、結果はこうだ。  「人質」だなんて言って、そばにいられることを当然のように考えていた報いなのかもしれない。  まゆりはポケットからおばあちゃんの形見の懐中時計を取り出す。何かにすがりたくなったとき、いつも最後の支えになってくれたのはこれだった。規則正しい時計の音を聴いていると、不思議と心が安らいだものだった。  懐中時計を片手に握りしめたままラボの窓を開ける。朝焼けの空に目を凝らしても、星は見えない。  まゆりは空に手を伸ばす。 「オカリン。まゆしぃはもう、重荷じゃなくなった……?」  静まりかえったラボの中で、空を見上げたまゆりの呟きは誰にも届くことなく消えた。