アンバランス・ガール


「ああ、これなら問題ない。採用だ」  簡単な面接を終え、履歴書から顔を上げた男が俺に告げた。  ランチから夜の営業に移り変わるあいまの中華料理屋の店内はひっそりと静まりかえっている。国道から道一本ぶん住宅街に入ったところにあるせいか、通り過ぎる車の音すらもない。 「小窪くんと言ったな。いつから出られる? 明日は大丈夫か?」 「はい。平日は学校が終わった夕方以降ならいつでも。休みも基本的に空いてます」 「そりゃ助かる。ちょうど人が足りなくて困ってた所でね……」  立ち上がった男が付いてこいとあごをしゃくる。そのあとを追い、並ぶテーブルの間を抜けてバックヤードへ続く通路のカーテンをくぐる。入った途端、空調の効いたホールとは一変して中華料理に特有の油の匂いが鼻についた。 「次からは表じゃなくて裏口から入れよ」  食材の置かれた棚の間の通路の向こう、開け放されたドアとそのむこうに並ぶ雑多な段ボールなんかが見える。あれが従業員用の出入り口って訳か。 「ついでだから、制服のサイズ合わせもやるか。そこの通路の奥、裏口の手前の所が更衣室だ。中で適当な奴を取ってくるといい。それと……」 「店長、ちょっといいすか? 例の奴なんですが……」  食材の下ごしらえでもしているのだろうか、白衣姿でまな板に向かっていたコックが説明の途中で男二話しかけた。  その声に応えた男……店長はコックの方へ行ってしまい、俺は一人その場に取り残される。 「適当な奴を取ってこいって、それだけかよ……」  ここで突っ立っていても仕方がない。俺は通路の奥にあるはずの更衣室に向かい歩き出す。  更衣室のドアは通路の突き当たり、裏口のすぐ手前の壁にあった。見たところ特に鍵は掛かっていないようで、何気なく俺は中に足を踏み入れる。 「先輩、おはようございます……え?」  すぐ横から聞こえた挨拶が、途中で疑問に変わる。思わず振り向いた俺の目の前には、バレッタで髪をまとめようとした姿勢のまま固まっている小柄な女の子がいた。  着替えの途中だったのか、はだけた店の制服の上着の間から薄緑色のブラがのぞいている。髪をまとめようと両手を頭上に挙げた姿勢のまま微動だにしない彼女と数秒のあいだ俺は見つめ合う。 「ごめん!」  先に動いたのは俺の方だった。叫ぶと同時にあとずさってドアを閉める。あまりに勢いよく下がったせいで更衣室の向かい側にある棚に背中をぶつけてしまうが、今はその痛みすら気にならない。 「おい、どうした?」  コックと話し終えた店長がこちらに向かってくる。彼に向かって起きたことを弁解しようとしたその時、後ろで更衣室のドアが開く音がした。     「で、こいつがいきなり入って来て、着替えをのぞいたと」 「そうなんです! ほんと最低…… 店長、こんな人を採用するんですか?」  「すみません……」  ただひたすら頭を下げ、さっきの女の子に謝る。そんな俺に向かって彼女の冷たい視線が容赦なく突き刺さっている。 「バイトの手が足りてないことは、お前だって判ってるだろ? 不幸な事故だよ、事故。こいつだってわざとやった訳じゃないんだし、許してやれよ」 「事故って……」  鼻白む女の子に向かって、俺はよりいっそう頭を深く下げた。ここで下手に弁解をすれば、まとまる場もまとまらなくなる。 「はあ…… もういいわ。わかりましたよ店長」 「物わかりが良くて助かるよ」 「こんなことでいつまでも争ってても仕方ないですし」  ため息をついてかぶりを振る彼女の声に俺は顔を上げる。その動きで、慌ててまとめたせいかバレッタでまとまり切れていないほつれ髪が微かに揺れた。 「みんな、おはよ〜」   重苦しい雰囲気を、脳天気な大声が破った。飛び跳ねるように更衣室から厨房への通路をやってきた別の女の子が、さっき更衣室で出会った女の子に後ろから飛びつく。 「どしたの? 元気ないよ〜」 「や、やめてください先輩。あ、きゃあっ!」  飛びついた女の子は、「さきょうななこ」と手描きの丸文字で書かれたネームプレートを店の制服の胸に付けていた。ご丁寧にもネームプレートの余白にはびっしりとハートマークやらよくわからないイラストやらやらが書き込まれている。 「あ、そういえば更衣室に名札が置きっぱなしだったよ」 「ありがとうございます先輩。急いで着替えたから付け忘れてました」  同時に彼女はまた俺をにらみつける。確かに急いで着替える原因になったのは俺だけど、そこまで目の敵にしなくてもと思ってしまう。  そんな俺達の様子を気にもせず、「さきょうななこ」さんが、スカートのポケットからもう一枚のネームプレートを差し出す。プレートには「藤沢未莉亜」の文字。  ふじさわ……何と読むのだろうか。珍しい彼女の名前につい目が引きつけられる。 「なに?」 「いや、その名前、なんて読むのかなって」 「『みりあ』 他に読みようがないでしょう」  きっぱりと言い切られると返す言葉もない。どうやら本気で嫌われてしまったようだ。 「店長、そういえば彼、新しいバイト子なの〜?」 「ああ。ついでだから紹介しておくか。こんどから新しくバイトに入る小窪だ。お前達と同じウェイターをやってもらう」  「小窪優史(こくぼゆうし)です。よろしくお願いします」 「もしかして高校生?」  「はい、そうです」  俺の返事に、「さきょうななこ」さんは何だかやたら嬉しそうにする。 「この娘、未莉亜ちゃんはうちの店のバイトの中で一人だけ高校生だったんだよ〜 良かったね未莉亜ちゃん、仲間が出来て」 「…………」  藤沢さんは、その言葉になにも答えないまま去って行ってしまう。 「小窪くん、なにか未莉亜ちゃんに嫌われるようなことしたの? なんか、全然相手にされてないよ〜?」 「いや、その……」  流石にさっきの出来事を説明するのは気が引けた。傍らの店長を見れば、事情を知っている彼はにやつきながら俺と藤沢さんを眺めている。 「ふーん。何があったかよく判らないけど、未莉亜ちゃんと仲良くしてあげてね。あと、私とも仲良くしようね〜」  俺の手を両手で握り、握手のつもりなのか振り回す相京さん。 「は、はい。どうも」  なれなれしいそのペースに調子を狂わされながらも、俺はこの店でなんとかやっていけそうな、そんな気がしてきていた。  改めて制服の支給をすませ、更衣室のロッカーのひとつを俺が使うようにしてもらう。細かい事務手続きや何やらをすませて帰る頃には、夕方の営業が始まる時間になっていた。  バックヤードではこの店の制服を着た女の子達が忙しく料理を運んでいた。相京さんや藤沢さんの姿もある。  厨房で飛び回る店長に挨拶し、裏口から外に出れば夕方の風が心地よい。  こうして帰り道をたどりながら思い出すのは、更衣室で出会ったあの娘のことだ。未莉亜。みりあ。一風変わったその名前と、俺を冷たい目で見つめるその瞳が、何だか妙に心に残った。                *   「おはようございます!」 「おう!」  裏口から厨房に足を踏み入れた俺の挨拶に、店長の野太い声が応えた。学校が終わってそのまま出勤してきたせいでまだ客はほとんど店内に居ない。  きちんとノックをし、返事がないことを確認してから更衣室のドアを開ける。昨日のような事をもう一度繰り返すのはごめんだった。  俺に割り振られたロッカーから店の制服を取り出して袖を通して身なりを整える。そうしている間にも、ドア越しに店長がコックに何か指図する声と、下ごしらえのまな板の音がドア越しに微かに聞こえる。  上着、スラックス、そして靴。更衣室の鏡で自分の格好に問題がないことを確かめ、厨房へ出ようとドアを勢いよく開けたときだった。 「きゃっ!」  身体を反らし、危ういところでドアにぶつかるのを避けた女の子がそこに居た。  俺より頭ひとつ分低いところから、女の子の縁なしの眼鏡越しの瞳が俺を凝視する。  一分の隙もない制服のブレザー。長くもなく短くもないスカート丈。栗色の柔らかそうな髪は、綺麗に二つにわけられて耳の後ろで結ばれている。  小柄な体格と俺を見つめるつぶらな瞳に、俺は小動物かなにかをとっさに連想してしまう。 「あの、どいてくれません?」  その言葉に慌てて道を空けると、俺と入れ替わりに彼女は更衣室へ入っていった。  そう言えばここ、男女共用で使ってるわりに鍵も何もないんだよな。そんな不用心でいいのだろうか。昨日の自分の失敗が思い浮かんで俺はまた心苦しくなる。  だが、それ以上に気になることがあった。さっきの彼女の着ていた制服、あれは…… 「よし、着替えたな。客が来る前に一通りのことは教えておいてやる」  俺の疑念を厨房からやってきた店長の声が遮る。  そのまま店長に連れられ、各テーブルの番号、食器や箸、おしぼりの収納場所といったことを教えられる。レストランのバイトなんて簡単なものだとなめてかかっていたが、何がどこにあるかを覚えるだけで一苦労だ。 「注文を受けるのはまだ無理だろ。今日はお前は料理を出すのと空いた皿の回収、それだけだ」  店長が教えてくれることを必死で暗記するだけで精一杯の俺は、その言葉に一も二もなくうなずく。これで注文など取らされたらどんな失敗をしてしまうか判ったものではなかった。 「……おはようございます」  ぶっきらぼうな挨拶の声に振り向けば、店のウェイトレスの制服姿の女の子……昨日会った藤沢さんが居た。チャイナドレス風の上着に紅色のタイトスカートが実に映えている。  新しく誰かが来た様子はない。ということは、目の前で手慣れた様子で今日の予約状況をチェックしている藤沢さんは、やはり更衣室ですれ違ったあの娘と同一人物なんだろうか。  そう思って注意深く見てみれば、眼鏡をかけていないのと髪をアップにまとめていることの他は背も何もかも同じだった。  身体のラインが見えやすいチャイナドレス風の上着のおかげで、小柄なわりに意外に大きな胸がさっきのブレザー姿より強調されている。 「……なに?」  視線に気付いた藤沢さんがこちらをうろんな目で見つめ、俺は思わず目をそらす。 「どうした? 未莉亜が気になるのか?」 「いや、その……」 「小窪くんだっけ? 仕事、ちゃんとやってね」  むすっとした様子で藤沢さんに注意される。まだ何もしていないのにそこまで言われる筋合いはないはずだが、着替えをのぞいてしまったのをまだ根に持っているのだろうか。 「おっはようございま〜す!」 「あ、先輩おはようございます」 「だから〜 その、先輩ってのやめてよー 「ななこ」で良いんだから」  挨拶がてらひとしきり藤沢さんにじゃれついたあと、彼女は俺の方を向いて目を輝かせた。 「おおっ、小窪くんも居る! よろしくね」 「どうも、今日からよろしくお願いします」」 「あ、小窪くんも名札もらったんだ。あたしとお揃いだね」 「お揃い、ですか?」  俺の疑問に「さきょうななこ」さんがひらがなで書かれたネームプレートを裏返す。そこには、俺のものと同じく店のロゴマークと一緒に印刷された「相京奈々子」の文字が読めた。 「本当はこっちが正式なんだけどね。漢字ばっかりだし、読めないし。ひらがなの方が可愛いでしょ?」  ネームプレートを胸に留めながら相京さんが微笑む。手書きのひらがなのネームプレートと、大人っぽいその表情のギャップに思わずどきりとしてしまう。 「おい、遊んでるんじゃねえぞ。三十分後には今日最初の予約が入ってる。用意しとけ」 「はーい」  緊張感のない声で応えた相京さんが銀盆を抱えてホールへ出て行く。藤沢さんは俺の方に目もくれず、黙々とデザートの杏仁豆腐を作り置きしている。 「小窪、お前は奈々子に付いて予約席の準備だ」 「わかりました!」  店長に指示され、俺は相京さんのあとについて準備を始める。こうして、俺のこの店でのバイトの一日目は始まったのだった。 「疲れた……」  芸のない台詞を漏らして、俺は皿を拭く手を少し休める。  客の入りが少ない店だとは思っていなかったけれど、まさかここまでとは。 「今週から春の新メニューが始まるからね〜 普段の夕方営業の常連さんにプラスして、新規のお客さんも一気に来たんじゃないかな」  仕事を始める前と全く変わらない調子で相京さんが応じる。 「今日なんてまだ少ない方だよ? あたしが見た中で一番多かったときはね、うーんと、テーブルと座敷が満席になってウェイティングも全部満席になって、お客に立って待ってもらったことがあったかな」  あの時はだいたい百人くらいは居たよね、と相京さん。軽い口調で話しながらも彼女の手はまるで別の生き物のように素早く動き、洗い終わった皿を拭いていく。 「でも、小窪くんも初めてにしてはなかなかだったよ。あたし、すごく助かった」 「どうも…… 自分では全然動けた気がしないんですけど」 「今日が一日目なら、ぼうっとして突っ立ってる時間が無かっただけで十分だよ。未莉亜ちゃんも、小窪くんは良くやったって思うでしょ?」  少し離れた所で調味料の補充をしていた藤沢さんに呼びかけるけれど、彼女はこちらをちらりと見ただけで返事しない。 「ごめんね。あの娘、人見知りがひどくて」 「いや、俺も悪いですから」  故意ではなかったとはいえ、最悪の出会い方をしてしまったことは確かだ。これから少しずつ信用を積み重ねて行くしかないのだろう。 「おう、小窪。お疲れさまだ」 「あ、店長……」 「高校生は夜十時までだ。もう帰りな」  もうそんな時間になっていたのか。仕事に追いまくられて全く意識していなかった。 「未莉亜、お前も上がりだ。あとは奈々子達に任せとけ」 「あとは私達がやっておくからね〜 未莉亜ちゃん、おつかれだよ」  相京さんと他の大学生バイト達から口々にねぎらいの言葉をかけられながら、俺達は二人でまかないの皿を抱えて更衣室へ向かう。藤沢さんが何だか不満そうにしているのが気になったけれど、帰れと言われたからには従うしかない。  二人で更衣室に入り、まかないを口に運ぶ。沈黙に耐えかねて、俺はつい藤沢さんに訊ねた。 「藤沢さんって、──大付属高なの?」 「いきなり何よ。私がどこの学校だっていいでしょ?」  けんか腰の彼女に気圧されつつも俺は続ける。 「いや、付属の制服着てたから。そこに置いてある鞄も藤沢さんのでしょ?」  着替え終わって出ていこうとした俺とぶつかりそうになったときに着ていた制服、あれは俺が普段の学校生活でさんざん見慣れたものだ。更衣室の片隅に置いてある学校指定の鞄もさっきからずっと気になっていた。相京さんいわくこの店のバイトで高校生は俺と藤沢さんの二人だけで、俺は指定の鞄でなく私物を使っている。  そうなれば答えはひとつしかない。 「あなた、もしかして制服マニア? うわ、やだ……」   「なんでそう言う発想が最初に出てくるかな」  心底から気持ち悪そうに藤沢さんが俺をにらみ、椅子ごと少しずつ身体を遠ざけていく。流石にそこまでされると心が痛くなる。 「俺も付属高なの。二年E組 小窪優史」  ロッカーの中にしまってある制服から生徒手帳を取り出し、あとずさり続けて更衣室の反対側の壁に当たって困っている藤沢さんに向けて開く。 「藤沢さんは何組なの? あのリボンだと二年生だよね」  俺の学校の制服の女子のリボンと男子のネクタイは学年ごとに色が違う。すれ違ったときに見た彼女のリボンの色は、確かに俺と同じ二年生を表す臙脂色だった。 「そんなこと、別にどうでもいいでしょ」  単なる好奇心からの質問に、全身から拒絶感をあらわにする藤沢さん。  俺に続ける余裕すら与えず、彼女は黙々とまかないの残りを口に運んでいる。話し声や洗い物の水音、ゴミを運んでいく足音などが更衣室のドア越しに響く。  狭苦しい更衣室での二人きりの食事。目のやり場に困った俺は、自分の皿に視線を落とす。  俺が食べ終えて一息つけば、ちょうど藤沢さんも最後の一口を口に運ぶところだった。顔を上げると、実に美味しそうに、そして残念そうに最後の一口を味わい飲み込む彼女の姿がある。バイトで疲れた身にはどんな料理でも美味しく感じるというのとはまた違った、本当に満足そうな表情だ。 「で、私は外で待ってるから、早く着替えて出て行ってくれる?」  空っぽになった皿の上に箸を置き、俺に向き直ると藤沢さんは冷たく告げた。 「あなたを外で待たせて私が先に着替えたら、また覗かれちゃうかもしれないし」 「あれは間違いだって言ってるだろ……」 「どうだか。ほら、早くしてよね」   それだけ言い残すと、藤沢さんはさっさと出て行ってしまう。独りで取り残されると狭く感じていたはずの更衣室が急に広がったような気がした。  しかたなく独りで着替えを始めながら、ドアの外で待っているはずの藤沢さんのことを思う。  今日一日だけで何回も相京さんにじゃれつかれている所は見たけれど、彼女は他の先輩のバイトの女の子達とはあまり話していなかった。  嫌われている……というのとはまた違う。一人だけ高校生だからなのかと思ったが、そういうわけでもないようだった。  俺に対してやたら厳しと思っていたけれど、もともとそういうタイプなのだろうか。 「……そんなわけないよな」  自分に都合の良い想像を打ち消す。お堅そうな彼女のことだ、きっと着替えをのぞかれるというのはとてもショックだったのだろう。 「終わったよ」  着替え終えて外に出れば、藤沢さんが退屈そうに俺を待っていた。 「……先輩の言うとおり、今日の小窪くんの動き、確かに良かったわ。これからもあのくらいきちんと仕事してね」  更衣室に入り際、俺に背を向けたまま藤沢さんが呟く。 「じゃ、さよなら」  返事しようとしたときには、既にドアは俺を拒絶するかのように閉ざされていた。  裏口から外に出れば、俺の頬をなまあたたかい春の夜風が撫でた。店の裏に止めた自転車へ向かいながら、帰り際の藤沢さんの一言を思い返す。  さんざん冷たく扱われた後だからか、一言だけ褒められたのが妙に嬉しく感じてしまう。これからバイトの同僚としてずっと付き合っていくのだ。もう少し仲良く出来るといいのだけれど。  高校生の働けるぎりぎりの時間、夜の十時まで働いて居たおかげで帰り道の街並みはもうすっかり闇に包まれてている。  こんな深夜に、藤沢さんは一人きりで帰るのか。今ごろ着替えているはずの彼女のことが、なんとなく気になった。              *    放課後の校庭を見るのは苦手だ。どうしたって、古巣のテニス部が目に入ってしまうから。  ちょうど大会前の時期だからか、熱の入った練習ぶりが学校の脇の道路からでもよく判る。 「やっぱり気になるのか?」 「いや、もう俺とは関係ないことだよ」  傍から見ても判るくらいだったのだろうか。会話の輪から外れてテニスコートを眺めて居た俺に、一緒に帰っていたクラスメイトの一人が声をかける。 「もう俺はスポーツ特待生でもなんでもない、どこにでもいるただの男子高校生さ」 「小窪、なんかそれ、自分で言うことじゃなくないか……?」  沈みそうになった雰囲気を、おどけてみることで元に戻す。腫れ物に触るようようにされるよりは、自分からネタにしていったほうが上手くやれるということを俺はこの数ヶ月で学んでいた。 「そういや小窪、今日もバイトか?」 「ああ、今週は明後日以外は全部シフトに入ってる」 「バイトの娘、誰か紹介してくれよ。お前だけが頼りなんだよ」 「あの店のバイトの女の子は大学生とかフリーターとか、大人な人ばっかりだからな、相手にされないって」 「そう言う小窪も相手にされてないんじゃね?」 「くそ、それは言わない約束だろ……」  冗談めかして答える俺に大笑いするクラスメイトたち。  そのまま俺は、バイト先での体験や、先輩バイトの女の子達のことを面白おかしく誇張して話してやる。個性的な相京さんの話がやたら受けたのでどんどん話を大きくしていったら事実からすっかり離れてしまい、なんだか彼女に申し訳ない気分になってくる。 「じゃ、俺はこっちだから」 「また明日な、小窪」 「紹介を頼むぞ! 童顔巨乳で二歳くらい年上の娘だと最高だ!」 「はは、努力しとくよ……」  最寄り駅へと向かうクラスメイトたちと手を振って別れ、俺はここまで押してきた自転車にまたがる。店は学校から俺の家への帰り道の途中、国道から道を一本住宅街の中に入ったところだ。  一人になると、フェンス越しに眺めたテニス部の練習風景が脳裏をよぎった。 「腐っても特待生、ね……」  クラスメイトの指摘を思い出して苦笑する。未練などないはずなのに、つい目が引かれてしまうのはまだ割り切れていない証拠か。  肘の故障で部活を続けることが出来なくなり、ただの一般生徒になった俺にとってスポーツ特待生だったのはもうすっかり過去の出来事だ。  テニスコートで汗を流していた元のチームメイト達。あの中に混じって必死で練習していた頃の思い出は、いまではもう自分の体験とは思えないほど遠い。  特待生としての数々の特典は失いこそすれ、流石に退学させられることはない。このまま残りの二年間へまさえしなければ、エスカレーター式で大学にも上がれる。  だけど俺は、そんなぬるま湯のような毎日には耐えられなかった。  たまたま昔に家族で食べに来たことがあるレストランが帰り道の途中にあるのを思い出し、立ち寄ってみればそこはちょうどバイト募集中だった。ほとんど飛び入りのような形で応募して、そこから今に至るわけだ。  口調こそ乱暴だが、店長は俺に何かと良くしてくれる。相京さんを初めとする先輩バイト達からも可愛がってもらえている。コック達が作ってくれるまかない飯の美味さに、最近では家で母親の作る中華料理が物足りなくなってきたくらいだ。  そして、藤沢さん。  あんな出会いをしたおかげですっかり嫌われているとばかり思っていたけれど、最近ではそれなりに話してくれるようになっていた。  俺達は高校生が働けるぎりぎり、夜の十時までシフトに入っている。二人ともまかないを食べてから帰るので、必然的に更衣室で顔をつきあわせることになる。  何だか固い印象があったけれど、話してみると意外に面白い娘だと思った。相京さんのような裏表無く明るいタイプとは異なる、可愛がりがいのある小動物とでもいったところだろうか。    そういえば。    さっきクラスメイト達に先輩バイトの女の子達のことを面白おかしく誇張して話していたとき。俺は、一言も藤沢さんについて話さなかったな。  交差点を曲がり、道の向こうに店が見えてくる頃。ふいにそれに気付いたのだった。             *   「小窪くん、これとこれが十六番テーブル、こっちは十八番にお願い。あと二十四番の片付けも!」 「わかった!」  休日のランチタイムは戦場だ。店長がいつだったか、真顔でそう言っていたことを思い出す。  バックヤードの奥に陣取り、注文を表示するモニターに目を光らせながら藤沢さんが厨房から出てきた料理を銀盆に載せ替えて渡してくれる。  その間にも、新しく入った注文がモニターに次々と表示されていく。 「たぶん今がピークだから」  藤沢さんの言葉に無言でうなずきを返し、カーテンをくぐって客でごった返すホールに出る。通りすがりに横目で見たレジでは相京さんが猛烈な勢いでレジに向かって会計をすませている。  無線式のリモコン(ハンディと呼ぶと教わった)で客の注文を入力すると、それが厨房にあるモニターに表示される。コック達はそれを見て料理を作り、ウェイターはモニターに表示されたテーブル番号へ出てきた料理を運ぶ。  いまどきどこの店にでもある、ありふれた仕組みだ。  だけど、何事もそう簡単にはいかないもの。モニターに表示しきれない特別なオーダーや、料理ごとの間隔を考慮しなければいけないコース料理などへの対応はどうしても人間が行う必要がある。そして、この店でそれを一手に引き受けているのが藤沢さんと店長だ。  着ているのは他のバイトと同じチャイナドレス風のウェイトレスの制服だけど、藤沢さんがバックヤードと厨房の間の料理が出てくるをカウンターのそばを離れて客の前に出てくることは滅多にない。  厨房での調理の進行を眺め、料理を運んでいったアルバイト達の報告を頼りに各テーブルの状況を把握し、調理に取りかかる順番を指示する。これをデザートや飲み物を作り置きするあいまに行うのだからとても人間業とは思えない。  ここで働き始めてから一ヶ月、そろそろ仕事に慣れてきた俺も藤沢さんの手腕にはただ舌を巻くばかりだった。  そして相京さんも、この店になくてはならない一人だ。普段の気だるげな様子とは正反対なてきぱきとした動きでレジを打ち、ウェイティングの客を案内する彼女を見たときには失礼とは思いつつ開いた口がふさがらなかった。  相京さんが案内し、藤沢さんが指示し、俺や他のバイト達が届ける。毎日のようにバイトに入っている彼女たちがこの店を回しているのは確かだった。  藤沢さんに指示されたテーブルに料理を届け、空いた席を片付ける。帰りには店の入口近くで待合客の整理をしている相京さんに空席状況を伝える。 「八番、小籠包ランチが二つ出てません!」  バックヤードに戻ると、女子大生バイトが悲痛な声で叫んでいた。確か山本さんとか言ったか、今日がバイトに入って二日目のはずの娘だ。おっとりした物腰が可愛いなと思ったのを覚えている。  だが、そんな彼女の特色も今この瞬間にはなんの役にも立たない。 「八番テーブル……? なんの注文も入っていないけど…… すいません! いま小籠包ランチ作ってます?」 「いや、そんな注文はこっちも聞いてない」  藤沢さんが目の前のモニターを見て首を傾げ、厨房のコックへと声をかけるが帰ってきたのは否定だけだ。 「なにかの間違いじゃないですか?」  ふるふると首を振って否定する山本さん。 「わたし、ハンディの入力方法がよく判らなくて…… だから、さっきそこにメモを置いていったじゃないですか」 「メモ? これのことですか?」  藤沢さんが傍らの調理台の上にひっそりと置かれた紙切れを取り上げる。 「こんなので……判るわけ無いじゃないですか……」  口ぶりこそ静かだが、藤沢さんがだいぶ怒っていることは判った。 「でも、でも……」  すくみ上がる山本さん。こうしている間にも刻一刻と貴重な時間が浪費されていく。今この場で手が空いているのは俺一人。  そうなれば、やることは一つしかなかった。 「俺が八番テーブルに謝りに行ってくる。藤沢さんは料理のフォローを」 「えっ? あ、判ったわ。じゃあ小窪くんお願い。それと店長! 十二番のランチコース、ちょっと止めてもらっていいですか?」 「ああ。こいつは食べるのに時間がかかるから、その間に遅れてる八番を片付けちまおうぜ」 「お願いします! ついでに十四番に出す胡麻団子を余分に作って、八番にサービスで出したらどうですか?」 「よし、そうするか。おい、胡麻団子を四つ追加だ!」  厨房の中で中華鍋に向かう店長と声を掛け合い、瞬く間に遅れを取り戻すためのプランを藤沢さんが建てていく。 「ほら、早く動いてください! 謝りには小窪くんが行ってくれるから、その間に他のテーブルの片付けとか客の案内とかいくらでもやることがあるでしょう? そこで黙ってればやり過ごせるとでも思ってるんですか?」 「はい……」  ホールへ足を進める俺の後ろで、バックヤードの入口で泣きそうになりながらうつむいている山本さんに、藤沢さんが厳しい声をかけるのが聞こえた。      ランチの営業時間が終わり、人気の絶えたホールが嘘のように静まりかえる。  食器の片付けを終えた俺は、引き続き夜の営業にも出る大学生バイトの先輩達に挨拶をすませて厨房へ向かった。  俺の今日のバイトはランチ営業の時間だけだから、まかないで遅めの昼食を食べたらあとは帰るだけだ。 「今日のメニューは何です?」 「炒飯だよ。米を余分に炊いちゃったから、ここで使いきっとこうと思ってね」  俺が差し出した皿にコックが中華鍋から直接炒飯を盛りつけてくれる。 「私にもください! 大盛りで!」 「藤沢さん、そんなに慌てなくても大丈夫だって」 「だって、早くしないとなくなっちゃうかもしれないじゃない! あ、海老多めでお願いします!」   コンロに向かいもう一食分を作り始めるコックの後ろで、あからさまにそわそわしている藤沢さんが何だか微笑ましい。  中華鍋の中で踊る米と野菜と肉を一心に見つめるその瞳がまるで餌を待ち望む小動物のようで、思わず自分より頭ひとつ分低いところにある彼女の頭を撫でそうになる。  だが、そんな事をしたら俺を待っているのはバイトを始めた頃にさんざん経験した藤沢さんの冷たい視線だ。軽口くらいは交わせるようになったけれど、そこまでは俺にも流石に出来ない。  いつまでもコックのそばを離れようとしない藤沢さんをその場において、まかないが冷めないうちに食べようと更衣室へ向かったときだった。 「おい、小窪。ちょっといいか」  更衣室へ向かう通路の途中、店の事務室のドアが開き顔を出した店長に呼び止められる。立ち話ですむかと思ったが、どうやらそうではないようだ。食べ物を持ち込むのもどうかと思い、ひとまず炒飯は通路横の棚に置いて事務室に入る。 「なにしてる? そこに座れや」  身に覚えのない突然の呼び出しに、俺は段々と不安になってくる。客から俺について何か苦情でもあったのだろうか? 接客態度に問題は無いつもりだったけれど……  緊張する俺をよそに、店長は机から煙草を取り出し火を付けて一息ついた。 「小窪、お前は未莉亜のこと、どう思う?」 「頑張ってるな、とは思いますが」 「ああ、熱心に仕事をしてくれるのはいい。だがあいつは厳しすぎる。そうは思わないか?」 「確かにそう言う面もありますけど……」  店長の言葉に、俺は渋々ながらうなずく。たとえば今日の山本さんへの態度なんかは、俺でもちょっとどうかと思う。  最近は認めてくれたのか仲良く話せているけれど、バイトを始めたばかりの頃は俺もだいぶきつい事を言われたものだ。 「この店、大きさのわりに妙にバイトが少ないだろ」  確かにそれは不思議だった。藤沢さんと相京さんの他には週に二〜三日入る大学生バイトが何人か居るくらいだ。 「みんな、未莉亜に耐えられないでやめちまうんだよ。あいつと組んで上手くやっていけてるのは、奈々子とお前くらいだ」  店長が煙草を灰皿でもみ消し、深くため息をつく。 「あいつも最初の頃は客の前に出てたんだけどな。試しに今みたいなことをさせてみたらとんでもなく上手にこなすわけよ。で、頼ってたらこうなっちまった。本当は、それじゃいけないんだろうけどな」  確かに藤沢さんの働きぶりは一種の才能すら感じる。あれでは頼ってしまうのも無理がない。 「小窪、一ヶ月でここまで出来るようになる奴はなかなか居ない。お前を雇って本当に良かったよ」 「そこまでじゃないとは思いますけど……」  普段なら喜んで受け取れる店長の褒め言葉も、この状況では何だか裏を感じてしまう。いったい俺に何を言おうとしているのだろうか。 「履歴書で見たが、あいつ……未莉亜と同じ学校なんだろ?」 「はい、──大付属高ですけど」 「それなら同級生のよしみでよ、未莉亜にもう少し言ってやってくれないか? 他のバイトへの態度についてだ」 「……店長が藤沢さんに直接言えば良いんじゃないですか?」 「さんざん言ったさ。というか、あいつ自身も判ってない訳じゃない」 「それならどうして……」 「きつい事を言って、相手に避けられて、自己嫌悪で凹む。あいつはその繰り返しなんだよ」  店長が遠い目をする。きっと、これまでの藤沢さんを思い出しているのだろう。 「あいつが感情的に不安定すぎるのは、きっと対等に話せる奴が居ないからだと俺は思ってる。奈々子には歳上だって事で遠慮してるところがあるしな」 「そうなんでしょうか?」 「ああ。だから小窪、同い歳のお前が頼りなんだよ」  正直なところ、自分には荷が重いと思った。だが、さんざん良くしてくれる店長の頼みを断るのも気が引けた。 「何とかやってみます」  だから俺は、そんな風に言葉を濁すしかなかった。  事務室から出れば、傍らの棚に置いておいたはずの炒飯の皿が無くなっている。残飯だと思われて片づけられたか? いや、あれはまかない専用のメニューだ。そんなはずはない。  それなら、藤沢さんが運んでいってくれたんだろうか。自分が食べることにいつでも精一杯の彼女にそんな気遣いが出来ると、俺にはあまり思えない。  まかないの行方について不審に思いながらに更衣室に入ると、食べ終えてくつろいだ様子の藤沢さんが俺を迎えた。いつもは俺と喋りながらの食事だから人並みの速度なだけで、一人だとこんなに早食いだったのか。 「遅かったじゃない。小窪くんの炒飯はそこよ。ラップかけといてあげたから」 「ここにあったのか…… もしかして、帰ってこなかったら俺のぶんも食べようとしてた?」 「な、なんで判ったの?」   冗談で言ってみたつもりが、藤沢さんは俺の言葉に目を丸くして驚いている。  なんだか最近、彼女の扱い方が判ってきた気がする。妙なところで抜けているというか、気を張りすぎて別の所がおろそかになっているというか。 「だって、大盛りって言ったのにあれしか盛ってくれないんだもん……」  空っぽの自分の皿を眺めながら愚痴る藤沢さんに笑いをこらえながら、自分の分のまかないを手に取る。  いくぶんか冷めた炒飯も、疲れ切った身には十分過ぎるほどのごちそうだ。藤沢さんは食べ終わって手持ちぶさたにしていたけれど、流石に着替えを急かしたりはしなかった。 「まともに動けるようになってきたじゃない」  俺の食事の音だけが更衣室に響いてしばらく、藤沢さんがぽつりと漏らした。 「え、なに?」 「今日は助かったわ。あんなに沢山お客が来たのに、最後まできちんと回せたのは小窪くんが居たから。小窪くんと組んでると、なんだかすごく楽にやれる気がするの」  その言葉を聞きながら、さっき店長から言われたことが頭の中を巡る。 「……俺以外と、上手くやっていこうとは思わないのか?」  途端に笑みを凍り付かせる藤沢さん。 「山本さんのこと? 確かにあれは八つ当たりもいいとこよ。でも、仕方ないじゃない……」  ため息をつき、藤沢さんはうつむいてパンプスのつま先を見つめている。  仕方ないのは彼女を腹立たせた山本さんの行為か。それとも、ちょっとしたことできつい言葉を放ってしまう彼女自身か。  あのあと、片付けの時間に相京さんが間を取り持って二人はお互いに謝っている。だが、見るからに気弱そうな山本さんは今回のですっかり怯えてしまっていた。  その時は藤沢さんの態度を横柄に感じたものだったけれど、俺の目の前で落ち込んでいる彼女は、下手をすると山本さんよりショックを受けているように見えた。  きつい事を言って、相手に避けられて、自己嫌悪で凹む。店長の言葉が、再び俺の脳裏に浮かぶ。 「藤沢さん、このあと時間ある?」 「なに……?」   「気分転換にさ、ちょっとこれから出かけない?」  あからさまに落ち込んでいる彼女を放ったまま帰ってしまうのは何だか気が引けた。気がつけば俺は、藤沢さんに誘いの言葉をかけていた。 「何で私がそんなことしなきゃいけないのよ」 「いいから。駅の近くに、俺のお薦めの美味しい店があるんだよ」 「別の日にしてよ。私、食べたばっかりだし……」  そっぽを向いて告げるそばから、彼女のお腹が可愛らしく鳴る。 「行くよね?」  俺のだめ押しに、彼女は顔を赤らめ小さくうなずいた。  休みなので私服に着替えた藤沢さんと店を出る。ゆったりした七分袖のパーカーにショートパンツとレギンスを合わせ、髪を下ろした彼女は店のウェイトレスの制服で居るときよりだいぶ幼く見えた。  学校の最寄り駅に近づくにつれ街の人通りが増えてくる。そこかしこですれ違う俺達の高校の制服姿の学生達は部活の帰りなのだろうか。  夏の兆しが少しだけ感じられる六月の風に、藤沢さんの栗色の柔らかそうな髪が揺れる。 「私、電車通学だから駅の周りの店ならほとんど食べたことがあるんだけど。どこに連れてくの? そろそろ教えてくれてもいいじゃない」 「いや、駅の周りじゃないんだよ」  駅のそばの商店街を素通りし、裏手の住宅街の中へと歩みを進める。さきほどまでの喧噪とはうって変わり、こちらは昼でも静まりかえっている。  流石の藤沢さんでもきっとこの店は知らないだろう。俺にはその自信があった。 「ほんとにこんな所に店があるの……?」  自転車を押しながら歩く俺の傍らで、藤沢さんが少し不安そうにきょろきょろする。 「そう思うだろ? この向こうに、知る人ぞ知るたこ焼き屋があってね」  説明しながらさしかかった十字路を曲がれば、件の店の姿が見えてくると同時に香ばしい匂いが漂ってきた。 「こんな所に……」  藤沢さんが絶句しているのも無理もない。閑静な住宅街のなか、住人以外はほとんど通らないような所にその店はあった。道路のそば、民家の店先に置かれたプレハブに「たこやき」と大書したのぼりがはためいている。 「どう? 信じられないだろ?」 「……」  無言のまま吸い寄せられるように藤沢さんは早足でたこ焼き屋に近づいていく。仕方なく、俺もそのあとを追う。 「すみません! たこ焼きください!」  プレハブ小屋の中を覗き込みながら藤沢さんが叫ぶ。その声に引かれて顔を出した店主が、俺に目を止めた。 「お、兄ちゃんは確か昔よく来てくれた……」 「覚えていてくれました?」  「当たり前よ。先輩から後輩へうちの店を伝えてくれてる兄ちゃん達は大のお得意様だからな!」  腕まくりをした店主が鉄板に油を敷き、たこ焼きの粉を流し入れる。香ばしいたこ焼きの香りがよりいっそう強くなり、俺はつばを飲み込む。 「ちょっと待っててくれよ。二人分でいいのかい?」 「はい! それでお願いします!」  俺が答えるのに先回りして藤沢さんが元気よく叫ぶ。  隣で背伸びをし、彼女はプレハブ小屋の窓から店主の手腕を食い入るように見つめている。その視線の先で、片面が焼き上がったたこ焼きが次々にひっくり返される。 「そういや、その娘は見ない顔だな。兄ちゃんの彼女かい? そんなに見つめたってサービスはしないぞ?」 「そんなんじゃないですよ。バイトの先輩です。……あ、でももし彼女だったらサービスしてくれるんですか?」 「そいつは企業秘密さ!」  店主と軽口をたたき合いながら出来上がったたこ焼きを受け取る。 「か、かのじょ…… 彼女、だって……」  傍らの藤沢さんに渡そうとすれば、彼女は何もなくなった鉄板の上を覗き込みながら固まっていた。その頬が赤いのは、鉄板を覗き込んで熱くなったからなのだろうか。 「ほら、藤沢さん。出来たよ」 「あ、ありがとう……」  道路を挟んで店の向かいにある小さな公園のベンチに腰を下ろし、俺達は熱々のたこ焼きを頬張る。食べ終えたあとにこちらをちらちらと見ていた藤沢さんには俺の分からいくつか分けてやった。  ベンチに並んで座ると頭ひとつぶん背の低い彼女を見下ろす形になる。この小さい身体のどこにこれだけの食べ物が入っているのだろう。 「遠回りになるけど、ここに寄ってからでもバイトに行けるかな? でも、そうするとまかないを食べられなくなっちゃうし……」  食べ終えて真剣に悩んでいる藤沢さんが何だか微笑ましくて、俺はにやける自分の顔を押さえられなくなる。 「……何よ、人が今後の食生活のあり方について真剣に考えてるのに」  まじめくさったその言いぐさに、俺はついに噴き出してしまう。 「そんなに喜んでくれるなんて、案内してよかったよ」 「小窪くんのことだからいったいどんなひどいところに連れてかれるのかと思ってたけど。見直したわ」 「俺のこと、どんな奴だと思ってたんだよ……」 「ふふ、秘密」  藤沢さんの柔らかな微笑みに不意打ちされ、思わず鼓動が高まる。何となく目を合わせられなくなり、俺は視線をそらしてたこ焼き屋の方を見やる。  近所の住人だろうか、若い母子連れがたこ焼きを買いに来ていた。 「そういえばあの店、先輩から教えてもらったって言ってたわよね? 小窪くんって何か部活をやってるの?」  毎日のようにバイトに来ている人が部活をしているとは思えないけど、と藤沢さん。 「テニス部。去年の特待生だよ」 「特待生って! あの、スポーツ特待クラスの? え、あれ、どうして……?」 「ちょうど学年が上がる頃に肘を悪くしてね。だから今は特待クラスじゃなくて一般クラスに移ってるし、バイトも出来る」  藤沢さんが息を呑む音が聞こえたような気がした。さっきまでの上機嫌はどこへやら、小さくなる彼女。 「ごめんなさい。そんな事情だなんて知らなくて……」 「別にいいよ。もう昔のことだし。藤沢さんは何かやってるの?」 「ううん、私は帰宅部。何にもしてないの」  それっきり会話の途切れた俺達を、かげりだした日差しが照らす。ベンチに座る俺達の影は、いつの間にかだいぶ長くなっていた。 「笑わないで聞いてくれる? 私がどうしてあの店でバイトしてるか」  唐突に藤沢さんに訊ねられる。俺の隣でうつむくその表情は見えない。 「私、あんまり人付き合いが得意じゃないの。学校の友達も少ないし……」  自分のつま先を見つめながら呟く藤沢さん。抑えた声でありながらながらも深刻な調子に、俺はつい居住まいを正す。  「接客の仕事をすれば、もうちょっと人付き合いがうまくなれるかな、そんな自分を変えられるかなって。だからあのバイトを始めたの」  そんな理由だったのかと驚く俺に、藤沢さんは続ける。 「バイトをしていれば、いつかは私もあの派手な制服が似合う明るい娘になれると思った。形から入ってみようとして眼鏡も外したし、髪型も変えてみた」  言葉を切り、振り向いた藤沢さんの悲しみをたたえた瞳に俺は何も言えなくなる。 「でも、そんなのは形だけ。普段から変えていかないとダメなのに、バイトの時だけ変身して何になるんだろうね? みんなとも仲良くなれなくて、きついことばっかり言ってる」  ため息をつき、藤沢さんは肩を落とす。  「小窪くんはバイトの私ばっかり見てるから知らないと思うけど、ほんとの私はもっと暗くて地味な娘なんだよ」 「……『ほんとの自分』なんて、あるわけない」 「えっ……?」  落ち込んでいる藤沢さんをみて、俺は思わず声が出ていた。 「『ほんとの自分』はこうだから、自分はこうなんだ……なんて、決めつけちゃいけない」  驚いたようにこちらを見つめる藤沢さんを前に、俺の言葉は止まらない。 「俺も、テニスが出来なくなったときは『ほんとの自分』を見失ったような気がして落ち込んだよ。ひたすら部活漬けの生活しかしてこなかったから、テニスをしない自分なんて想像できなかった」  抜け殻のようになっていた頃の思い出がよみがえり胸が痛む。それを無視して俺は更に続ける。 「でも、いまはこうして楽しくやれてる。自分で自分のことを決めつけるなんて、馬鹿げてる」 「…………」  一息に言い切ってから、だいぶ恥ずかしい台詞を吐いていたことに今さら気付いた俺は照れ隠しのように付け足す。 「俺や相京さんとは仲良く出来てるし、他のバイトの人とも同じようにすればいいんだよ。そうすれば、きっと上手くやっていけるって」 「なんでそこで相京先輩が出てくるのよ!」 「え、俺、何かまずいこと言った?」 「もう、知らない! 帰るわよ」  勢いよく立ち上がり、そのまま俺を置き去りにして早足で去っていく藤沢さん。そのあとを追いかけながらたこ焼き屋の前を通り過ぎれば、店主がにやつきながら俺達を眺めていた。  背の低い彼女の小さな歩幅には、少し急げばすぐに追いついてしまう。俺が横に並んだのをちらりと見て、彼女は歩調をゆるめてくれた。  無言のまま歩く俺達を、駅前商店街の喧噪が包む。ちょうど駅の前まで来たところで、藤沢さんが足を止めた。 「今日はありがと。ちょっとだけ、気が楽になったわ」  夕焼けの光を浴びながら藤沢さんが笑う。 「お腹一杯になって満足だろ?」 「そんなんじゃないわよ…… バカ」  俺を軽くこづいたあと、彼女は手を振りながら駅へと入っていった。                 *    二人でたこ焼きを食べに行った次の週から、期末テストが近いので俺はバイトをしばらく休むことにした。藤沢さんと会えないのは残念だが、こればかりはどうしようもない。  平日はほぼ毎日、休みも土日のどちらかは必ず出勤していたのが無くなると何だか落ち着かない。思えば部活漬けだった一年生の頃もテスト休みになると手持ちぶさたにしていたものだった。つくづく俺は時間の使い方が下手な人間らしい。  もちろん、そこでせっせと勉強が出来るようなら今ごろ俺は特別進学クラスにでも編入している。 「どのくらい勉強してる?」 「全然してねー 明後日からはテストだなんてもう信じられねえよ。小窪だって、人に訊いてる場合じゃなくね?」 「だよな……」  クラスメイトと駄弁りながら廊下を歩く。こうしていながらもすれ違う他のクラスの女生徒たちにどうしても目が行ってしまう。  初出勤の日に藤沢さんの制服姿を目にし、彼女が同じ学校だと知ってからずっとだ。だが、なにせ一学年が四百人近くいるマンモス校だ。同じ学年と言っても、女子だけで相当な数が居る。  他のクラスをひとつずつ訪ねて探そうかと思ったこともある。けれど、そうやって見つけられて彼女はきっと嫌がるだろうと思うと俺は踏み切れなかった。 「小窪、なんかお前って最近、やたら女子のこと見てない?」 「え、何言ってんだよ」 「ほら、今もあの娘のこと目で追ってる」  廊下を歩く俺達を追い越していった数人の女生徒の中、背が低くて髪の毛を二つに結んだ娘の背中をつい見つめていた。 「隠すなって。彼女でも欲しくなったか? それなら俺と一緒に一年生との合コン行こうぜ」 「前にさんざん俺にバイトの先輩を紹介してくれって頼んでたのは誰だっけ?」 「その話はもう止めてくれ。やっぱり年下の娘だって! 妹っぽい甘えん坊とか最高じゃね?」 「いくら何でも好みが変わりすぎだろ……」  苦笑しながらさっきの娘に目をやれば、振り返ったその容姿は藤沢さんとは似ても似付かなかった。  ため息をつき、年下の女の子の良さを切々と語るクラスメイトをからかおうとしたとき、   「遅いよ、『みりあ』」    その単語だけが、休み時間の喧噪の中から浮き上がって聞こえた。反射的に足が止まる。呼び声に応え、俺の横の教室から出てきた女生徒と目が合う。彼女の眼鏡越しの瞳が俺の顔に釘付けになる。俺達二人の間の空間だけ、騒がしさに満ちた昼休みの空気から切り離されてしまったかのようだ。 「『みりあ』、どうしたの?」 「おい小窪、なに止まってるんだよ」  歩みを止めた俺たちに気づいたお互いの友人がそれぞれ声を掛ける。「みりあ」なんてそうそう居る名前ではない。  バイトの制服で居るときとはまるで違う地味な姿と気弱そうな態度。いつか、彼女が自分のことを暗くて地味な娘と評していたのを思い出す。だが、服装が違おうとも柔らかそうな栗色の髪も、俺を下から見上げる小さな背格好にも、眼鏡越しの眼差しにも確かに見覚えがあった。  声を掛けようと口を開きかけた俺の前で、彼女はうつむくと足早に少し先で待つ友人達の方へ去っていった。半ば無視されるような形になり、俺は呆気にとられて歩み去る彼女の姿を見つめる。 「知り合いなのか?」 「いや、その…… まあ、知り合いみたいなものかな」  一部始終を見ていたクラスメイトから訊ねられる。なんと答えればいいのか迷い、俺は言葉を濁す。 「思いっきり無視されてなかったか? そうか小窪、お前はああいう娘が好みなのか」 「タイプって…… そんなんじゃない」 「ちょっとマニアックだけど、あの手のお堅そうなタイプほど裏ではエロいって言うしな。流石は小窪先生、お目が高い」  廊下の先では、友人と合流した藤沢さんが角を曲がって視界から消えるところだった。独り合点するクラスメイトの言葉を聞き流しながら、その小さな背中を見送る。  彼女はこちらを振り返りもしなかった。俺がここに居るのは判っているはずなのに。     「なに? 私の方が大盛りだとか思ってるわけじゃないわよね? 分けてあげないわよ」  テスト期間が終わって最初のバイトの日。久しぶりに会っても藤沢さんの調子は以前と変わりない。  今日のまかないは余った食材と賞味期限の近づいた揚げ麺を使ったあんかけだ。膝の上に載せている皿におおい被さりながら、藤沢さんが俺をにらむ。 「大盛りなのはいつもの事だろ。あ、この海老いる? 俺、嫌いなんだよね」 「わ、ありがと!」  藤沢さんが何のためらいもなく俺の皿から海老を取り上げ、そのまま口に運ぶ。こうしていると、何だか小動物に餌づけでもしているようだ。 「小窪くんはテストどうだった? 補習になってバイト休んだりしないよね?」   実に美味しそうに海老を頬張った藤沢さんが俺に訊ねる。 「俺は赤点だけは回避ってとこかな。そっちは?」 「私は物理が難しかったなー やっぱり山張っちゃダメね。地道にやらないと」 「物理? あれ、藤沢さんって……?」 「言ってなかったっけ? 私、理系クラスなのよ」  素っ気なく答える彼女の視線は手元の皿に注がれたままだ。このバイトで出会った頃に、クラスを聞き出そうとして思いっきり拒絶されたのが嘘のようだった。  今なら、テスト期間中のことを訊いても大丈夫だろうか。 「……理系って事は、A組かB組だよね?」 「うん、私は物理選択だからB組」 「じゃあ、この前に廊下で会ったのはやっぱり藤沢さんだったんだ。B組の教室から出てきたよね?」 「ろ、廊下で? さあ、なんのことかな……?」  俺の言葉に藤沢さんの身体がびくりと震える。上目遣いにこちらを見つめる彼女の瞳が、自分の失言を悔やむかのように揺れている。 「声かけようとしたら走って行かれちゃったから、人違いだったのかなって思ってた」  もちろんそんなのは嘘だ。俺が彼女を見間違えるはずがない。 「無視したわけじゃないわ…… 恥ずかしかっただけ」  ため息をつき、かぶりを振る藤沢さん。 「小窪くんと会うときはいつもこの格好じゃない。だから……」  藤沢さんはそう言いながら制服の短めなスカート引っ張って直す。それにつられて紅色のスカートから見え隠れする膝につい目が行ってしまう。 「小窪くんもがっかりしたでしょ? いつもの私はあんな感じなの。元気よく居られるのは、このバイトの時、この格好の時だけ」  「確かに、バイトの時とだいぶ違ってびっくりしたよ。でも、いまの格好の方が可愛いのに。学校でもそうしてれば良いんじゃないの?」  ちょっと踏み込みすぎているとも思った。だけど、今の俺達の間柄なら深刻になるよりもこうやって冗談で笑い飛ばしてしまった方がいい気がした。何気ないそぶりを装って言ってから、次第に気恥ずかしくなってきて俺はまかないに視線を落とす。  藤沢さんからは何の返事も帰ってこない。流石にまずかっただろうか。  謝ろうとした俺が目にしたものは、耳まで真っ赤になってうつむいている藤沢さんだった。 「かわいい…… かわいいって……」 「え、ちょっと、どうしたの?」  予想外の反応に戸惑う。こんな藤沢さんは初めてだ。 「小窪くん、私のこと、かわいいって言ってくれるんだ」  再び顔を上げた藤沢さんが俺の瞳を覗き込む。狭苦しい更衣室で二人きりだと言うことを、今さらのように意識する。 「そうやって、かわいいって、誰にでも言うの?」 「そういうわけじゃないけど……」 「どうして? どうして、私にだけかわいいって言ってくれるの?」  どうしてなんだろう。  初めて会ったときから、ずっと気になっていた。冷たい娘だと最初は思っていたけれど、話してみると意外に面白い部分もあると気付いた。落ち込んでいるときには、元気づけてやりたいと思った。いつのまにか、こうやって一緒にいるのが当たり前になっていた。 「どうして、こんな私のことをかわいいって思うの? どうして、こんな私にかわいいって言ってくれるの?」 「……好きだから、かな」  改めて言葉にしてみると、その事実がすとんと腑に落ちた。 「好き…… そうなんだ。ありがと。嬉しい」  一瞬はっとしたあと、藤沢さんは嬉しそうに俺の告白を受け入れてくれる。 「私もね、小窪くんの事が好きだったよ。気がついたら、バイトで会えるのがすごく楽しみになってた」  好意を返してくれる彼女の言葉が純粋に嬉しい。  見つめ合った俺達は、そのまま────    更衣室のドアが、音を立てて少しだけ開いた。びくりとした俺達は同時にドアの隙間から更衣室の外を見る。 「ごゆっくりどうぞ……」  ドアの向こうでは、相京さんが苦笑いをしながら俺達を眺めていた。 「せ、先輩! 見てたんですか?」 「あたしは何も見てない〜 あたしは何も聞いてない〜 あたしは何も知らない〜」  妙な節を付けて歌うようにする相京さん。更にもまして真っ赤になった藤沢さんが、相京さんにくってかかる。 「良かったね、小窪くんなら安心だよ〜 可愛い可愛い未莉亜ちゃん」 「先輩、もしかして全部聞いてました……?」 「さあね? そうやって怒ってると可愛くないよ? 小窪くんに嫌われちゃうよ?」  はっとしたように藤沢さんがこちらを振り返る。彼女から何か言われる前に、俺は安心させようと笑いかけてやる。 「うわ、目と目で通じ合っちゃったよ、この二人…… ごちそうさまでした」 「こ、小窪くん! 相京先輩は私が何とかするから、早く着替えて!」  藤沢さんが真っ赤になったまま更衣室を飛び出し、相京さんを押しのけていく。独り取り残された俺は、呆気にとられ余韻も何もないまま着替えるしかなかった。  着替え終えてもこれまでのように先に帰らず、更衣室の外で藤沢さんを待つ。 「俺、ここで待ってるから」 「……うん」  通路の向こうのバックヤードでは相京さんが俺のことを指差しながら他のバイト女子大生たちに何かを話している。皆の視線が俺の横顔に向けられているのを感じるけれど、意思の力を総動員してそれを無視する。  しばらくのち、ドアを開けて出てきた藤沢さんの出で立ちは眼鏡をかけていないだけで学校で会ったときと同じ──大付属高の制服だ。  バレッタでまとめられていた髪は二つに結んで下ろされ、中途半端な長さのスカートが膝を少しだけ隠す。夏服のブラウスの上にベストを着ると、店の制服を着ているときとは違って身体のラインも目立たない。 「かわいくないって思った?」 「いや、そんな事は……」 「嘘。だって小窪くん、今の私を見てがっかりしてたもの。私には判るの」  頑なに言い張る藤沢さんにはとりつく島もない。 「相京先輩も言ってた…… かわいくない私は嫌われちゃうんだ。かわいくない私は捨てられちゃうんだ。かわいくない私は居なくてもいいんだ。かわいくない私は相手にしてもらえないんだ。かわいくない私に価値なんて無いんだ。かわいくなきゃだめなんだ。かわいくならないと。もっとかわいくならないと。そうしなきゃ……」 「だからそんなこと無いって。落ち着いてよ」  いきなりうつむいてぶつぶつと呟きだした藤沢さんを前にどうして良いか判らなくなった俺は、目の前にある彼女の頭を小動物を可愛がるように撫でてみる。 「きゃっ! 何するのよ!」 「いや、なんか撫でたくなって……」  真っ赤になる藤沢さん。更衣室を出てすぐの所でいちゃついている俺達に、相京さん達が何か言っている気がするが知ったことか。  今の俺には、目の前の彼女を安心させてやることが全てだった。 「ほら、落ち着いた?」  「うん…… 小窪くんは、私がかわいいから撫でてくれたんだよね?」  そうじゃない、と叫びたかった。だが、そうすればまた彼女は俺の真意に反して落ち込むと判っていた。  だから俺は、 「ああ、そうだよ」  彼女の言葉を、ただ肯定してやることしかできない。                 *    『今日は一緒にお昼食べようね』  昼休みの教室で携帯電話を取り出し、朝に届いた藤沢さんからのメールを眺める。 「おい小窪、朝からずっとにやにやして気持ち悪いぞ。彼女が出来たからって、もうちょっと自重しとけよこのヤロー」 「そ、そうか?」  クラスメイトからの指摘に慌てて緩んだ顔を引き締めようとするけれど、どうにも難しい。なんたって、今日は初めて彼女と学校で昼を一緒に食べるのだから。  あの告白からしばらく経ったが、同級生のはずなのに俺達はほとんど学校では会っていない。  一度藤沢さんのクラスを訪ねてみたら、友人達と居る彼女が何だか居心地悪そうにしていたのでやめてしまった。  それにどうせ俺達は毎日のようにバイトで会うのだ。まかないを二人で食べて、その後は駅まで藤沢さんを送り、お互いが家に帰ってからは毎日欠かさずの電話とメール。これが今の俺達の日課になっていた。 「来週から夏休みか。結局、夏休み前に彼女は出来なかったな…… 滑り込みセーフの小窪が羨ましいよ」 「滑り込みセーフとか言ってるからお前はダメなんだよ」  もっと一緒に過ごせる時間が増えると思うと夏休みが待ち遠しくてならない。脳裏で夏休みの計画についての妄想をふくらませていると、教室の入口から彼女の声がした。 「優史くん!」  こちらへ手を振っている藤沢さんはもう眼鏡をかけていない。おろして二つに結ばれていた柔らかそうな栗色の髪も、今ではバイト中と同じようにまとめてバレッタでアップにされている。俺には細かいところはよく判らないが、心なしか制服の着こなしも段々と大胆になっているような気がする。 「それじゃ、俺はあいつと食べてるから」  いそいそと自分の弁当を鞄から取り出し、藤沢さんの元へ向かう。 「中庭でお昼にしよ! ほら、早く!」  手を取った藤沢さんが、有無を言わせぬ調子で俺を連れていく。俺と繋いだ手と反対側の手には、飾り気の無い小さな手提げ袋を下げている。 「私のことだから、三段式の保温ジャーとか持ってきてるんだと思ってたんでしょ」 「流石にそれは… でも、小さい弁当箱でお腹空かないの?」 「だって、こうしないとかわいくなれないもん」  告白の時の台詞をずっと引きずっているのか、藤沢さんは自分が「かわいい」事に異常にこだわる。そんな事を気にしなくたって十分だと何度も伝えたけれど、彼女は頑なに譲らなかった。  中庭に出れば、ベンチに座ったり、芝生に直接腰を下ろしたり、縁石に腰掛けたりと思い思いの姿勢で昼食を取っている連中が居る。数人のグループから二人きりの世界に入っているカップルまで、学年も人数もその顔ぶれは様々だ。 「気持ちいいー」  吹き抜けた初夏の風を身体全体で感じるように、藤沢さんが伸びをする。  藤沢さんはあっという間に自分の弁当を食べ尽くしてしまい、俺の方をもの言いたげに見ているのでいくつか分けてやる。結局こうなるのだったら最初から沢山持ってくれば良いと思うのだが。 「藤沢さん、そういえばさ……」 「ねえ、未莉亜って呼んで」  二人とも食べ終わり、満腹を抱えて気だるい時間を過ごしているとき。何気なく話しかけた俺を、彼女は鋭く遮った。 「さん付けはやめて。呼び捨てでいいから」  軽く言い捨てるようでありながらも、その言葉はまるで命令のように響く。 「この名前、ずっと嫌いだったの。名前だけ可愛くて、実際の私と全然合ってないって思ってた……」  その言葉で、初対面の時に読み方を訊ねたらむっとされた事を唐突に思い出す。  きっと彼女は、何度も何度も読みを訊ねられ、そのたびに嫌な思いをしてきたのだろう。 「優史くんがかわいいって言ってくれたから、私は自信がもてたんだよ。だから、これからは未莉亜って呼んで」 「み……未莉亜、さん」 「未莉亜。 み り あ。 ほら、呼んでよ」 「……未莉亜」 「もっと。もっと呼んで」 「未莉亜」  俺が名前を呼ぶたびに、藤沢さん……未莉亜はとろけそうな笑顔を浮かべてくれる。  あまりにも幸せそうにしている彼女に愛おしさが募ってくる。ここが学校の中庭で、今が昼休みだと言うことを忘れてしまいそうになる。  二人で見つめ合いながら名前を呼び合う俺達は周囲からどんな風にみられているのだろうと思わないでもない。  だが、名前を呼ぶだけで未莉亜が満たされてくれるのなら、俺はいくらでもそうしてやるつもりだった。      放課後の教室で友人とのお喋りに興じていたらすっかり遅くなってしまった。自転車で飛ばしていけばバイトにはまだ間に合うはずだ。  帰り際に藤沢さん……未莉亜のクラスをのぞいてみたが、彼女はもう先に帰ったあとだった。  歩いてバイトへ通っているので俺より先に学校を出ているのは当然の事だけれど、それが何だか少しだけ寂しい。  「前は別々に帰ってても何とも思わなかったのにな……」  一緒に過ごす時間を少しでも多くしたいと思ってしまうのは、単なる友人ではなく恋人として未莉亜を見るようになった事による欲目なのかもしれない。  そういえば、最近はこうして放課後の校庭を歩いていてもテニス部の事が気にならなくなっていた。恋人が出来れば吹っ切れるなんて、軽い悩みだと自分のことが笑えてしまう。  バイトへ向かおうと駐輪場で自転車にまたがる。まさにこぎ出そうとした瞬間、ここで聞こえるはずのない声がした。 「優史くん……!」 「あれ、ふじ……未莉亜、どうしたの?」 「ちょっとクラスの用事で先生のところに行ってたら遅くなっちゃって」  ここまで走ってきたのだろうか、未莉亜は少しだけ息を切らせている。 「歩いていったらバイトに遅れちゃうから、後ろに乗せてもらってもいい?」 「いいよ。二人乗りしたことある?」 「ごめん、初めてなの……」  荷台に横座りしてもらうが、慣れない彼女は止まっているときからすでに落ちてしまいそうにぐらぐらしている。俺の肩を掴む手つきも実に危なっかしい。  これでは振り落としてしまいそうで、とてもじゃないが走り出せない。 「しかたないな、こうやって手を前に回してみて」 「……こう?」  おそるおそる未莉亜が俺の腰に手を回す。抱きつくような形になり、そこまでしてからようやく俺は自転車のペダルをこぎ出した。 「きゃっ!」  段差を乗り越えようとして揺れると同時に、未莉亜が思いっきりしがみついてくる。夏服のブラウス越しに彼女の体温と、胸のふくらみの柔らかさを感じる。 「こうしてると、恋人同士みたいよね」 「……俺達は恋人同士だろ」  未莉亜の呟きに真面目に返してみる。二人乗りをしているので顔が見えないから、こんな恥ずかしい台詞も何とか言えた。 「うん、うん。私、優史くんの彼女なんだよね」  振り落とされないようにしがみつくのとはまた違った、愛情の込められた優しい抱擁。未莉亜が俺の背中に頬をすり寄せている感触がした。 「だから、私以外の女の子のこと、かわいいって言ったりしちゃ駄目だからね?」  俺の身体に回した手に力が入り、お腹の辺りに軽く爪を立てられる。 「ううん、かわいいって言う以外も駄目。優史、中庭でお昼食べてたとき、他の女の子のことを見てたでしょ」   「そういうの、許さないから」    大声を出しているわけではけっしてない。なのに、抑揚の消え失せた未莉亜の言葉は俺の耳をとらえて放さない。 「文系クラスだから、優史のクラスは女の子が沢山居るのね。今日の昼休み、呼びに行ったときはびっくりしちゃった」  ただ事実を述べているだけの筈なのに、なぜそれを俺はそれを恐ろしいと思ってしまうのだろう。 「クラスの女の子たちと仲良くされるのって、わたし、嫌だな」  それっきり未莉亜は黙ってしまう。強く抱きしめる彼女に何も言えないまま俺は自転車をこいだ。  ようやく店の裏にたどり着き自転車を止めると未莉亜が荷台から飛び降りた。いくら彼女が小柄だとは言え真夏の日差しの下で学校からここまでを走ってくるのは相当に疲れる。  周囲には換気扇から吐き出された中華料理の匂いが漂っている。普段は特に何も感じない香ばしいそれも、疲れ切った今の俺にとっては少々気持ちが悪い。 「すごい汗…… ちょっと待ってて、ふいて上げるから」  ハンカチを取り出した未莉亜が俺の汗を拭ってくれた。 「今日もバイト頑張ろうね!」   汗に濡れた俺の顔に手を伸ばしながら未莉亜が笑いかける。背中越しに聞かされた呪いのような声の名残は、もうどこにもない。 「今日のまかないは何かな? 私、麻婆豆腐が良いんだけど、優史くんは何食べたい?」 「いや、俺は何でもいいよ」  「じゃあ、二人で麻婆豆腐が食べたいって頼んでみない? きっとそうすれば作ってくれるわ」 「材料が余ってないと駄目なんじゃないのか?」  これまでに何度もしたような、他愛のないじゃれ合うようなやり取り。その変わり無さが、少しだけ怖くなった。 「優史くん? どうしたの、私、何か変な格好してる? かわいくない?」  店の裏口の前で、未莉亜が不安そうに上目遣いで俺を見つめた。 「そんなことないって。未莉亜はいつでも可愛いよ」  こんな時は小動物を可愛がるように頭を撫でてやるのが一番だと、俺は今までの彼女との付き合いで学んでいた。髪に触れられ、未莉亜は目を細めてうっとりとする。 「おい小窪、うちの店はラブホじゃねえんだぞ」  不機嫌さをにじませただみ声が俺達の平穏を破る。裏口から出てきた店長が、腕組みをしながらすぐそこに居る俺達をにらんでいた。 「お前らが付き合うのは別に構いやしないが、店でいちゃつくのはよしてくれ。ここはそういう場所じゃないんだ」  傍らで不満そうにしている未莉亜に視線を移し、店長は更に続ける。 「未莉亜、お前もだ。小窪が優しい奴だからって、甘えてるんじゃない」 「その名前で呼ばないで……」   二人乗りをしていたときに背中越しに耳にした、抑揚の消え失せた未莉亜の声。それがいま、俺のすぐ隣から聞こえていた。 「名前で、呼ばないで。未莉亜って、呼ばないで!」  大声で叫んでいるわけではない。けれど、不思議と耳について離れない、その呟きのような声。 「これからは、私のことを未莉亜って呼んで良いのは、優史くんだけなんだから!」  悲痛な叫びが俺の胸を打つ。今の彼女の苦しそうな表情は、きっと昼休みに名前を呼んであげたときのとろけそうな笑みの裏返しだ。 「あ、ああ。そうか。済まなかったな、み……藤沢」  気圧されたように応じた店長は、もうすぐ予約の客が来るから早く着替えて来いよ、と独り言のように言い残してきびすを返した。 「あ、あ、あ…… 私、わたし……」  取り乱す未莉亜の手を引いて更衣室に入る。何よりもまず彼女をなだめようと、俺はその小柄な身体を抱きしめる。  俺の胸に抱かれ、未莉亜の身体の震えが次第に収まっていく。しばらくして顔を上げた彼女は、目を腫らしては居るものの何とか笑顔を作ってくれた。 「かわいくない事しちゃってごめんね。でも、我慢できなかったの」 「大丈夫。俺はいつでも未莉亜の味方だから」  「うん。うん……ありがと」  ひとしきりうなずいた未莉亜が俺から身体を離す。何かもの言いたげに、だが恥ずかしそうに俺を見るその様子にまた不安になる。  「まだ何か嫌なことがある? 大丈夫?」 「ええと、そろそろ着替ないといけないから……」 「ごめん!」  真意を悟った俺は慌てて更衣室を飛び出す。あまりに勢いよく飛び出したせいで更衣室の向かい側にある棚に腕をぶつけてしまい、痛みに顔をしかめる。  そういえば、未莉亜と出会ったときも俺はこんな風に更衣室を飛び出したのだった。わずか数ヶ月前の出来後が、まるで遠い昔のようだ。  「小窪、やってくれたな」  物思いにふけろうとした俺を、苦虫を噛み潰したような表情をした店長が呼び止めた。 「なんのことですか?」  彼が言いたいことは予想が付いたけれど、素知らぬふりをしてみる。そんな俺を、店長は何か化け物を見るような目で眺めていた。 「確かに俺はあいつ……藤沢と仲良くしてやれとは言ったがな、こんな風にしろと言った覚えはねえぞ」  「未莉亜はもともとあんな娘ですよ。今まではそれが表に出てなかっただけです。それに、不安定な未莉亜を支えてやれと言ったのは店長じゃないですか」 「お前のは、ただ依存させてるだけじゃないのか?」  「未莉亜が満足してくれれば、俺はそれでいいんです」 「……まあいい、くれぐれも、ここがレストランで、お前達はバイトに来ていると言うことを忘れるなよ」  店長はきっと、もっと穏やかな関係を望んでいたのだろう。 だが、未莉亜を満たしてやるにはこうするしかないのだ。  「小窪くん、おはよ〜 今日は遅かったじゃない」  予約客のための準備をしていたのだろう、ホールから戻ってきた相京さんが俺に声をかける。 「未莉亜ちゃんはどうしたの? 今日は休み?」 「ちょっと、色々あって」 「あ、わかった。ケンカ中なんでしょう? 駄目だよ、未莉亜ちゃんみたいな娘には優しくしてあげないと〜」 「はは、そんなんじゃないですよ」  更衣室から出てきた未莉亜が、相京さんと話す俺に粘ついた視線を送っているのに気付く。  もしかすると、俺はどこかで道を踏み外してしまったのかもしれない。いや、いまも踏み外し続けているのだろうか。  客が来るまえに未莉亜をどうやって落ち着かせようかと頭をひねりながら、俺はふとそんな事を思った。            *   「お邪魔します……」 「さっきも言ったけど、今日はうちの親は居ないからさ。ゆっくりして行ってよ」 「うん。優史くんの部屋、見せてもらってもいい?」  夏休みも半ばを過ぎる頃。緊急の配管の補修工事とやらで俺達のバイト先は一週間ほどの臨時休店となった。一緒に居られる時間が夏休みになれば増えると思っていたら結局バイト漬けだっただけに、俺達にとってこの一週間はまさに福音だった。 「でも、優史くんも親と一緒に出かけても良かったのに。そんな機会めったにないでしょう?」 「いや、俺は未莉亜といられる方がいいよ」  そして、実家に用事が出来たとかで帰省を兼ねて両親は明後日まで出かけている。俺も一緒に来ないか誘われたけれど、友人との約束があると言い張って一人での留守番を勝ち取っていた。  「ありがと。優史くんにそう言ってもらえて、私、とっても嬉しいよ」   俺の言葉に未莉亜が頬を赤らめる。ここしばらくは一緒に過ごしてやる時間が長かったせいか、目に見えて彼女は安定していった。 「ここが優史くんの部屋なんだ。ふーん」  「な、なんだよ」  自室に未莉亜を案内してやると、彼女は興味津々といった風で周囲を見回した。 「意外に綺麗だなって思って。男の子の部屋って、普通はすっごく汚いものなんでしょ?」 「どこで聞いた話か知らないけど、誰でもそう言うわけじゃないんだよ』 「残念だな、もし行くことがあったら掃除してあげようとか、ついでに家捜ししちゃおうとか、いろいろ考えてたのに」  ベッドに腰を下ろした未莉亜はなおも部屋の中を実に興味深そうに眺めている。そんなに俺の部屋が気になるのだろうか。 「ちょっと飲み物持ってくるから。未莉亜、何がいい?」 「なにか冷たいものないかしら?」 「それなら、アイスコーヒーかな」   うなずいた未莉亜を後にキッチンへ向かう。西日の入る位置にあるキッチンは、夏の夕日で赤く染められていた。  アイスコーヒーを二人分作りながら、今晩の事について考える。未莉亜は友人の家に泊まると言ってきたと昼間に話してくれた。だから俺達は、今晩はずっと二人で過ごせる。  髪を撫でてやるのはしょっちゅうだし、未莉亜が感情を高ぶらせたときはいつも抱きしめて落ち着かせている。この前のデートでは、キスまでだってこぎ着けた。だから今夜は、きっとそれ以上の関係に……  考え事をしながらだったのでアイスコーヒーを注ぎすぎてグラスからこぼしてしまう。こぼれたコーヒーを拭き取りながら、自分が浮かれていることを自覚して苦笑する。未莉亜を落ち着かせるどころか、俺が落ち着かないでいてどうするんだ。  「未莉亜、コーヒー持ってきたぞ……あれ、何やってるんだ?」  自室に戻ると、未莉亜は床に座り込んで俺のノートパソコンをいじっていた。  理系だからと言うわけではないだろうが、未莉亜は普通の女の子よりもコンピューターやネットに詳しい方らしい。その手の事はさっぱりな俺にとってはそれは感心してしまう部分だったが、彼女にとってはそうでないようだった。 『こういう事に詳しい女の子ってかわいくないよね?』  以前にちょっとトラブル解決を手伝ってもらったとき、彼女はこう寂しげにもらしていた。だからだろうか、俺から助けを求めたりしない限り未莉亜が俺の前でパソコンをいじったりすることはほとんど無い。そう、そのはずだった。  「どうしたんだ?」  俺の問いかけにも耳を貸さず、彼女は一心にディスプレイを見つめている。そこまで熱中するような何かがあるのだろうか。ノートパソコンの背面側を部屋の入口に向けているので、俺からは未莉亜が何を見ているのかわからなかった。  負荷のせいか、ノートパソコンの冷却ファンが盛大に音を立てているのに気付く。  流石に壊したりされては困る。そう思った俺は、未莉亜の後ろに回り込んで視線の先のディスプレイを覗き込んだ。 「おい、この画像と動画、どうやって……?」  彼女の視線の先。  そこには、俺のノートパソコンに入っている全ての動画と画像が一望の下に晒されていた。テニス部時代の部活風景や、クラスの友人達と撮っちゃ写真。そして、男なら誰でも大なり小なり持っているようないかがわしいものも、何もかもだ。 「優史くん、他の女の子を見ないでって言ったじゃない……」   ディスプレイから視線を離そうとしないまま、未莉亜が低く押し殺した声で俺をとがめる。 「み、未莉亜、どうやってそんなに見つけたんだよ」 「ネットで『彼氏の性癖知るためのたった一つの簡単な方法』って載ってたからやってみただけ。簡単よ、単に画像と動画をそれらしい拡張子で全部検索して見てみればいいだけだもの」  未莉亜は色々と細かいテクニックについて語ってくれるけれど、俺の耳には全く入ってこない。 「約束したよね、優史くん。いつでも私のことだけ見ていてくれるって」  あられもない姿をさらす半裸の少女の画像。検索で見つかったそれを、未莉亜が何のためらいもなく削除する。 「でも、ちょっと嬉しいな。みんな、私みたいなスタイルの女の子ばっかり。背が小さくて、でも胸はちょっと大きくて、髪の毛は軽く染めた茶色で……」   そうやって改めて指摘されると、自分の欲望を白日の下に晒されるようで穴があったら入りたい気分になる。これでは関係を進展させるどころの騒ぎではない。 「……でも、この娘達みんなより、私の方がきっとかわいくなれる。私の方がきっと優史くんの好みになれる」  画像と動画を次々と削除していきながら未莉亜の言葉は止まらない。  「優史くんの好みの女の子に一番近づけるのは私。優史くんにかわいいと思ってもらうためなら何だって出来るわ」   視線をディスプレーに向けたまま背中越しに向けられる熱情を帯びた未莉亜の声に、俺は次第に絡め取られていく。  新しく見つかった動画を再生すれば、未莉亜に雰囲気の似た小柄な女の子が男に組み敷かれて喘ぎ声を上げていた。 「私だって、優史くんにならいくらでもこういう事をしてあげるんだよ。肌触りも匂いも温もりもない映像なんかより、そっちの方がずっと良いはずよ。初めてだからすぐには上手くできないかもしれないけど、優史くんのためならいくらでも練習してあげる。いつでも、なんでも優史くんの要求に応えてあげる」  俺のノートパソコンのなかのいかがわしい画像や写真を全て削除し終わり、未莉亜が後ろに立つ俺の方へ振り向く。 「全部消しちゃったけど、全然大丈夫よ。だって、もし写真も動画が欲しくなったら、こんどからは私を撮ってくれていいのよ。私が何かあって優史くんのそばに行けないときでも、私のまがい物なんかで満足しちゃだめ」   上着をたくし上げて未莉亜が肌を晒す。小柄な体型に似合わない形の整った胸と、それを包む薄桃色の可愛らしい下着が俺の目の前に現れる。 「こんなに恥ずかしいことも、優史くんにならできるんだよ」  勢いよく上着を脱ぎ捨て、上半身はブラジャーだけになった未莉亜が俺の元ににじり寄る。うっとりと表情で微笑みながら俺にの頬に手を伸ばし、そのままあごのラインを撫でる。  そして彼女は、俺に問いかけるのだ。 「ねえ、いまのわたし、かわいい?」